旧約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「自分を忘れ、神を第一とする信仰」

葛西福音キリスト教会 聖書のお話し 2021523()

1.テキスト「第二サムエル記15:2429

2.タイトル「自分を忘れ、神を第一とする信仰」

3.中心聖句「第二サムエル記15:25

神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、

主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。

 

4.本文「自分を忘れ、神を第一とする信仰」

 序)「エステルの信仰

 聖書は不思議なことを言います。

「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」

(ルカ 17:33)。

 そのように生きた一人の女性が聖書に登場します。それはエステルという女性です。

「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」                                             (エステル記4:16)

 

エステルは死を覚悟し、ユダヤ人の救いのために立ち上がる決心をします。しかし、彼女は背後からの支えを必要としていました。ユダヤ人全体の団結を訴えると共に、彼らが三日三晩断食をするように求めたのです。ここには祈りということばは出て来ませんが、当然のこととして祈ることも含まれていたと言われています。これからエステルが立ち向かおうとしている問題は非常に困難な問題であり、とうてい一人の力でできるようなことではありませんでした。今日の私たちにも多くの問題があるとしても、教会においてすべてのキリスト者が心を合わせて祈るなら、不可能をも可能となしたもう神の力が働かれるのです。私たちにも同じ信仰が求められています。今回、私たちが神の召命に生きる教会、葛西福音キリスト教会は無事に賃貸契約を継続することができました。しかし、今後、牧師の私にもエステルのような信仰が求められることもあるでしょう。しかし、私は神に信頼し感謝さえもしています。それは教会の皆様がきっとエステルの背後で祈ったイスラエルの民のように、これまでも祈っていてくださり、更に今後も祈り続けてくださると信じているからです。

 

本日のテーマ) 「自分を忘れ、神を第一とする信仰」

 本日のテキストでも絶体絶命に追い込まれたダビデは、神の箱を町に戻し、自分のいのちと王の位への復帰を神に全く委ねています。私たちはその信仰に学び、我田引水(がでんいんすい)的な生き方のアブジャロムの愚かさを避けましょう。

 

Ⅰ.「我田引水的アブシャロム王子の愚かさ」

日本のことわざには我田引水ということばがあります。我田引水とは文字通り、自分の田んぼにだけ水を入れるという意味です。そのことから、他人のことを考えず、自分に都合がいいように言ったり行動することをさすことわざとして使われています。父でもある王ダビデにクーデターを起こす王子アブシャロムはまさに我田引水的な生き方をする人物でした。

『「ご覧。あなたの訴えはよいし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない」と言い、さらにアブシャロムは、「ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが」と言っていた』                           (第二サムエル記15:3-4)

 

このように、王の都がユダにあることで北イスラエルの人々が必然的に感じる不満と、王への悪口とが王子アブシャロムによって語られます。その狙いはダビデへの信頼を失墜させ、そして人々の不満を解決する新しい王としての自分を売り込むことでした。まさに、自分の利益、自分の地位、自分の権力のことだけしか考えていませんでした。

 そして、イスラエルの人々の心を盗み、クーデターの下地を作ったのです。

「アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ」(第二サムエル記15:6)

 

Ⅱ.「自分を忘れ、神を第一とする信仰の祝福」

 では、ダビデは息子アブシャロムの起こしたクーデターで王の都エルサレムを追われ、いのちの危険もある中で、どのように振舞ったと聖書は教えるのでしょうか。

「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」

(第二サムエル記15:2526)

 ダビデは息子アブシャロムから逃れるために、都からいのちからがら脱出した自分に従ってきた祭司のツァドクに神の箱を元に戻し、エルサレムに戻れと命じます。そして、「主の恵みをいただくことがあれば」と神にすべてをゆだねる信仰を告白します。そして『あなたはわたしの心にかなわない』と神が言われるなら、最悪の事態も甘んじて受け入れますとの信仰も告白するのです。

 まさに、イエスの教えである「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」(ルカ 17:33)という生き方です。イエスはその言葉通り、私たちの罪の赦しときよめのために十字架で死なれ、そして三日目によみがえられました。そしてイエスの十字架の死と復活の事実を信じる者に神の恵みとして、罪の赦しときよめをお与えになられました。もし、まだイエスの救いを信じておられない方はイエスを信じてこの恵みをお受けになられていただきたいと願います。

 そして、既にイエスの十字架を信じて恵みをいただいた者には、目には見えませんが、私たちとともに生きてくださるイエスとともに、イエスと同じように自分を捨てて、神に生きる生き方が求められるのです。その生き方こそ、ダビデの生き方であり、エステルの生き方なのです。それが「自分を忘れ、神を第一とする信仰の祝福」に生きることなのです。

 

 

勧め) 「自分を忘れ、神を第一とする信仰の祝福」

 本日は、「自分を忘れ、神を第一とする信仰の祝福」というタイトル、そしてテーマで聖書をお語りさせていただきました。

 どうか、まだイエス・キリストの十字架を信じておられない方は、イエスの十字架とその復活の事実を信じて救いを受けてください。そうするならば、「我田引水」的な生き方からあなたは救われます。もし、あなた自身に問題があり、人間関係で生きにくさを感じているとしても、イエスの恵みは、あなた自身をより良い人間に変え、困難から逃れる知恵も備えられるのです。そしてあなたの周囲に悪意のある人がいるとしても、神の守りが備えられるのです。

 

 また、既にイエス・キリストを信じておられるクリスチャンの皆様、「自分を忘れ、神を第一とする信仰の祝福」に生きることを神は求めておられるのです。私たちもダビデのように生きようではありませんか。神は必ず悪をさばき、あなたを救われて、祝福の人生に導かれるお方なのですから。