新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会 説教


イエスが友と呼ばれるあなたへ


タイトル

イエスが友と呼ばれるあなたへ

葛西説教20200614②礼拝メッセージ

1.テキスト「ヨハネの福音書15章1節から17節」

2.タイトル「イエス様が友と呼ばれる、あなたへ」

3.中心聖句「ヨハネ福音書15章14節」

 「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」

 4.本文

 )クリスチャンの目標

   クリスチャンの目標というか、どうなるべくしてクリスチャンとなったのでしょうか。

  「聖霊による歩み」(..シンプソン著)にはこのように記されていました。私たちが救われ、聖霊によって導き入れられる聖潔は、アダム的な完全を指すのではありません。すなわち、人類が堕落によって失った性質の回復ではありません。…第二のアダムであるイエス・キリストの内住です。すなわち、聖潔とは、人間の性質の完成ではなく、神様の性質が与えられることであり、人の魂が人類を贖われたかしらであられるキリストのご人格と一致することです。

本年度、私たちの教会には創世紀2214節、「主の山の上には備えがある」というみ言葉が与えられています。私たちが神に備えられる人、そして神に備えられる教会として目標とするもの、それはこのイエス様が私たちのうちに住み、私たちがイエス様のうちに住むことともいえるでしょう。そこで、本日はイエス様とともに生きることが教えられている、このテキストの語るメッセージに耳を傾けて聴きましょう。

 

本日のテーマ) 「イエス様が友と呼ばれる、あなたへ」

 

(1)イエス様の友の条件、それは愛

イエス様の友に求められる「戒め」

  それは、イエス様が私たちのことを友と呼んでくださる条件に「愛」という戒めがあるからです。イエス様はこのように教えられました。

 

(ヨハネの福音書1512)

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

 

  イエス様はご自身があらわされた「愛」で、私たちは「互いに愛し合うこと、これがわたしの戒め」と教えられました。そしてその戒めこそ、イエス様が私たちを友と呼んでくださる条件なのです。イエス様はこのように教えられました。

 

(ヨハネの福音書1514)

「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」

 

  では聖書はイエス様が教え、そしてあらわされた愛についてどのように教えているでしょうか。

 

(2) 愛の使徒、ヨハネは愛を強調する。

  ヨハネの福音書を記した使徒ヨハネは、愛の使徒と呼ばれています。それはヨハネが聖書中で愛を強調していることもその理由の一つです。

  

(第一ヨハネ 416) 「神は愛です。」

 

この聖書のみことばは有名ですね。

  新約聖書には282回「愛」ということばが使われています。そのうちヨハネの福音書、ヨハネの手紙などを含めて、ヨハネは78回も「愛」を使い、新約聖書全体の4分の1以上になります。(この数字は、新改訳聖書での数字です。)

本日のテキスト、ヨハネの福音書でも「愛」の重要さは強調されていると言われています。ある聖書学者が調べたようですが、前半(1から12)では「光」が23回「いのち」が32回などが中心的で、愛は6回です。それが後半(13から17)では「愛」が31回なのに対し、ほかの語は少なく1桁です。このことから、「いのち」と「光」の究極的な実現が「愛」において与えられていることを強調していると言われています。その神学者のことばですが、「人が神を知って、神のいのちにあずかり、神が人と一つとなり、万物がそれによって造られた永遠のことばによって被造物が創造主に立ち返るのは、愛(アガペー)を働かせることにおいてです。」と教えています。

すなわち、神様との出会いから悔い改め、救い、聖化や救いの完成のすべては愛(アガペー)の働きと言えるのです。

 

(3)イエス様が私たちを愛する愛(アガペー)とは

  ですけれども、最近、様々な愛がありますね。ストーカーが愛を語り、虐待を親が「愛のムチ」だからといって正当化します。なぜでしょうか。それは、私たちが「愛」と呼び、概念の中では最上なもの、永遠に尊ばれる「愛」が罪の影響で自己中心的なものになっているからです。イエス様は最上の「愛」「アガペー」についてこのように教えられました。

 

(ヨハネの福音書1513)

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」

 

  イエス様はこのように最上の「愛」「アガペー」を自己犠牲なものとして教えられました。まさにイエス様の十字架にこの最上の「愛」が現わされているのです。

  では、聖書で教えられている愛とはどのような愛でしょうか。

 

(第一コリント134節から7)

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

 

  これが聖書の教える愛(アガペー)なのです。

  そして、たとえ宗教的行為、キリスト教的であっても、愛がなければ値打ちがないと退けられています。

 

(第一コリント13章1節から3節)

「私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

 

これは不思議に思われる方もおられるかもしれませんが、教会やクリスチャンが伝道や交わりで陥りやすい点かもしれません。私たちクリスチャンは「愛がなければ」教会となり、礼拝し、伝道し、交わりがあっても「何の役にも立」たなくなると聖書は教えています。

  

(4)私たちはどのようにしてそのような愛を持つことができるのでしょうか。

  しかし、おそらく、この聖書の教える愛を自分の意志や力で実行できる人はいないでしょう。

イエス様は私たちがクリスチャンとして成長する秘訣を、ブドウの木のたとえでこのように教えられました。そしてこの教えは、神の新しいイスラエルとしての共同体(教会)に向けられて語られています。

 

(ヨハネの福音書154)

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」

 

  私たちはイエス様なしには、実を結ぶことはできないのです。

  最初にご紹介した。A.Bシンプソンが教えた「聖潔とは、人間の性質の完成ではなく、神様の性質が与えられることであり、人の魂が人類を贖われたかしらであられるキリストのご人格と一致することです。」ということも同じことを言っているのですね。

 

  イエス様にとどまるとき、私たちは神様の性質が与えられるのです。そうして初めて、イエス様の愛(アガペー)に生きることができるのです。

 

(5)神様の友の私たちが、実を結び続けるためには

  最後に、神様の友の私たちが、実を結び続けるために聖書から教えられましょう。

 

(ヨハネの福音書152)

「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」

 

  この「刈り込み」とはどのようなことでしょう。ブドウの木の枝は、もっと多くの豊かな実を結ぶように、刈り込まれなければならないのです。そのことは、クリスチャンがイエス様にある永遠のいのちの恵みを続けるために、絶えず「きよくされる」必要があることを教えています。この聖めを象徴するものは、繰り返し守るようにと制定された教会の聖餐式です。イエス様のたとえでは、ブドウの木の枝は、それ自身のうちにいのちを持っていない。枝は、それがつながれている木の幹からいのちを供給されています。それゆえ、イエス様の弟子たちは、絶えず聖化されることによって、イエス様のうちにとどまっていなければならないと教えられたのです。

  ですから、イエス様はこのように教えられました。

 

(ヨハネの福音書155)

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

 

  どうか、イエス様が友と呼ばれる私たちは、神様から備えられ続けるために、キリストのからだなる教会において互いに愛し合いましょう。それがイエス様にとどまり続け、実を結ぶ秘訣であるとともに、イエス様の友にふさわしい生き方なのですから。