新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「本物であるために」

葛西福音キリスト教会 2020913日 礼拝聖書のお話し

1.テキスト「ヤコブの手紙2章14節から26節」

2.タイトル「本物であるために」

3.中心聖句「ヤコブの手紙2章14節」

「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」

 

4.本文「本物であるために」

 )「バベルの塔と神の国(キリストの教会)の違い」

  最近、実家から送られてきた週報に掲載された説教に目が留まりました。その中でバベルの塔の「バベル」とは、元々「バブ・イル」、「神の門」を意味することばだそうです。しかし、バベルの事件以後、「バルバル」、すなわち「混乱」を意味することばとなったと。それに対して、キリストの教会はペンテコステを通して、一致をもたらすものとなったと教えられていました。神のことばなく、御霊の働きなく、人のことばと知恵、そして力のみの世界は混乱を生むのです。この世の建物的に見れば、バベルの塔もキリストの教会もその見た目やプロセスに似たところがあるでしょう。しかし、その本質は全く異なっています。

 

テーマ「本物であるために」

⑴信仰と行いの関係

  本日の聖書のテキスト箇所でヤコブは、信仰と行いの関係を述べながら、本物の信仰とは何かを教えています。まず、ヤコブはこの手紙を読む一人一人に問いを投げかけています。

 

(ヤコブの手紙2章14節)

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」

 

この節から26節までは、新約聖書中でもよく論議される個所でもあります。皆さんの中にもこの個所に戸惑いを覚える人もいるかもしれません。しかし、本日、これまでの先入観を忘れて、どうか、すなおに私たちはみことばに聞こうではないでしょうか。まず、先のみ言葉で誤解されやすいのは「だれかが自分には信仰があると言っても」の箇所でしょうか。ここでヤコブは「人に信仰があっても」とは言っていません。多くの「信仰か、行いか」についての疑問は、ここから始まるのでしょう。ヤコブは「だれかが自分には信仰があると言っても」と言って、「私は信仰がある」「私は神を信じている」と言う人はいくらでもいるというのです。イエス様も同じことを教えられました。

 

(マタイの福音書7章21節)

「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです」

 

本物の信仰は、その人を主キリストと一つにし、聖霊の導きのままに、その思いと行いをもって主に従う決断をさせるはずだからです。口先だけの信仰は見せかけのものであり、その人を救う力はないのです。

 

⑵ 信仰と知識の関係

  続いてヤコブは信仰と知識の関係について教えています。本物の信仰と言うとき、それは正しい聖書知識、神様理解に基づいていることは大切です。しかし、正しい聖書知識と神様理解だけでは本物の信仰とは言えないと教えます。

 

(ヤコブの手紙219)

「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」

 

ここでヤコブは、行いのない信仰を主張する者は、きっと「信仰は聖書と神様の知識だ」と言うであろうとしてこのように言いました。そして、厳しい皮肉のことばを投げかけます。「悪霊どももそう信じているのだから」と。ヤコブはこの節で信仰個条のたいせつさを認める一方、それだけでは不十分であることを教えているのです。私たちも礼拝ごとに「使徒信条」を唱えています。使徒信条は受洗準備や異端排除のための正当信仰の学びに用いられています。しかし、信条を知っていること、イコール信仰ではないのです。パウロもテトスへの手紙で同じことを教えています。

 

(テトスへの手紙116)

「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。」

 

⑶ アブラハムの信仰義認は信仰?行い?

  私たちの救いとは何かと問われれば、アブラハムの信仰義認を語る人も多いと思いますが、ヤコブは私たちの信仰を揺るがすようなことを言います。

 

(ヤコブの手紙221)

「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。」

 

この節の「義と認められた」という一節は、パウロとヤコブに大きな信仰上の矛盾がある、という誤解が生じるかもとしれません。しかし、ヤコブはここでパウロが言っているような意味で「義と認められた」ということばを使っているのではないのです。パウロが新約聖書に引用する旧約聖書は。

 

(創世記15章6節)「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

 

しかし、ヤコブの場合は別の創世記の箇所を引用します。

 

(創世記229)

「ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。」

 

子のいなかったアブラハムが最初に義とされたのは、人間的に見れば自分の子孫が海辺の砂のようになるという神の約束の実現の可能性が全く見られなかったのに、神の約束を信じた時です。ヤコブは、この信仰による義について語っているのではないのです。その約30年後、イサクをささげることに表れ、その信仰は本物であった、ということを言っているのです。

ですから、 「ささげたとき」というのを、アブラハムが神の義と認められた条件であったかのように理解するなら誤りということです。

 

⑷信仰は行いとともに働く

では、最後にヤコブが教える「本物の信仰」とは何でしょうか。そしてそのもたらすものは何でしょうか。

 

(ヤコブの手紙222)

「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、」

 

ヤコブは、アブラハムが信仰に行いを加えて、初めて義と認められたと言っているのではありません。使われていることばは、絶えず働き続けるとの意味です。すなわち、アブラハムの信仰は最初に義とされた時から有効であり、その時から働き続け、約束の子イサクをささげる全き従順の行動にまで彼を進ませたのです。これは本物の信仰と行いが、常にともに進むことを教えます。行いから分離された信仰など存在しないのです。

また、「信仰は行いによって全うされ」とは、アブラハムの信仰が、以前は不完全だったが今や完全になったというのではありません。人が義とされるのは、神を信じる信仰によるのです。そして、それが本物の信仰であればあるほど、生活の中に実践となって表われるのです。

  最後にヤコブは本物の信仰のもたらすものについて教えます。

 

(ヤコブへの手紙2章23節)

  「そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」

 

 「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」これは創世記156節の引用です。アブラハムがイサクをささげたのは、このことばの語られた30年後も後であるのに、その行いによってこのことばが「実現した」というのです。

すなわち、この信仰義認は必ず神により実現されるべき何かが予想されているのです。事実、彼の信仰が神によって義とされたことが具体的に明らかにされるときが、神の摂理の中に定められ、彼は生涯の出来事を通してそれを実証させられているのです。イサクをささげたことが、その一つです。さらにヤコブは、アブラハムに与えられた信仰義認の報酬を明らかにするために、彼が後に「神の友」と呼ばれたことに言及します。今日でも中近東では、「神の友」と言えばアブラハムを指すと言われます。この呼び名の意味するところは、神がしようとされることをアブラハムには隠されないことだとされます。アブラハムは神が歴史の中でしようとしておられる大いなる計画のいくらかを見る、そして体験する特権を得たのです。

もし、あなたが神様を信じるという信仰による義を得たならば、必ずそれはあなたの生き方になるのです。なぜなら、神は従う者を祝福される方、決して見捨てないお方だからです。

 

(箴言133節)

「わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」

(ヨハネの福音書812節)

「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」