新約聖書から、神の愛をあなたへのページ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会 礼拝説教


タイトル

人の弱さを舞台に神様は、働く

聖書個所「第二コリント12710節」

 

中心聖句「第二コリント1210節」  「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

 

メッセージ「人の弱さを舞台に神様は、働く」

 初めに)「宮沢賢治の望み、それはデクノボーでした。」

 「雨にも負けず」で有名な、宮沢賢治のあの時の結びの言葉をご存じでしょうか。それは「日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに『デクノボー』と呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい。」と結んでいます。

 そのモデルになったのは、宮沢の友人である斎藤宗次郎という無名のキリスト者であったと近年明らかになりました。彼は、内村鑑三の影響を受け、信仰を貫いたために冷遇され、職を失い、不遇な生涯を送ったそうです。不器用で、誰からも賞賛されることもないが、常に困窮する人に与え尽くす人でもありました。宮沢賢治の理想の人物は、偉大な英雄ではなく、「誰からも褒められな」い役立たずのデクノボーという「ウドの大木」と言われ軽視される人物でした。

 

テーマ)「人の弱さを舞台に神様は、働く」

①聖書が記す「弱さ」

パウロの誇り、それは弱さでした。

イエス様の救いの恵みゆえに、パウロは弱さを告白します。

「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。」(Ⅰコリント15:9)。小さいとは権威ではなく、時間的に後という意味。書かれたのは5556年頃です。さらにその後では、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、」(エペソ3:8)と、さらに。書かれたのは約61年頃です。そしてついに、「私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15)と。意味は迫害者であっただけでなく、自らの罪深さを強調してのこと。書かれたのは63年頃。

 まさに、イエス様を信じたパウロにとって弱さは、神様の恵みのゆえに恐れるものではなく、神様の恵みの働く舞台であったのです。

人の弱さを舞台に神様が働かれ、幸いを得た人の例。

 パウロの場合、目が見えないこと。(使徒の働き9章8節)

 エチオピヤ人の女王カンダケの高官は、聖書が読めない。(使徒の働き8章27節)

 ヤボクでのヤコブは兄のエサウへの恐怖で進めなかった。(創世記32章31節)

 神様は試練を通してよい地に導く。(詩篇661012)

②イエス様は、十字架の弱さを舞台に、私たちを救われた

聖書は言います。「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。」(Ⅱコリント13:4)。

なぜ、罪びとが救われて生きることになるのでしょう。聖書は答えます。「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)と。イエス様は十字架という弱さを通して、私たちを罪から救ってくださいました。どうか、まだイエス様を信じておられない方は、信じて罪の赦し、天国への切符をもらってください。

 

③イエス様を信じて教会に加わるなら、新たな価値観で生きるのです。

 救われて教会の交わりに生きる時、私たちは新たな価値観の人間関係に生きることができるのです。そして、神様はあなたの弱さを舞台に働かれ、神様の栄光を現してくださるお方なのです。オランダの牧師、アンドリュー・マーレーは、その著「キリストの御霊」で言っています。「あなたの兄弟のうちにある聖霊を深くあがめよ」と。私たちは、その人自身がどういう人であるかによってではなく、彼がキリストにあって持っているものによって評価すべきなのです。それが賜物としての聖霊をいただいた新しい価値観の人々、教会の人間関係です。

 

お勧め「人の弱さを舞台に神様は、働く」

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12:9.10

 

ですから、弱さを恐れず、「人の弱さを舞台に神様は、働く」と信じて生きてください。そして弱さを覚える人に力強く伝道しましょう。神様は必ず働かれます。