新約聖書から神様の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「弱さを知る者を神は選ぶ」

1.テキスト「ルカ22:31-3454-62

2.タイトル「弱さを知る者を神は選ぶ」

3.中心聖句「ルカ22:61

「主は振り向いてペテロを見つめられた」

4本文「弱さを知る者を神は選ぶ」

)「弱さを見つめた遠藤周作」(「ETV特集 封印された原稿」より)

 遠藤周作、その彼の没後25年に、未発表作「影に対して」が世に出されました。その作品も含めて遠藤周作を紹介する番組、教育テレビ『ETV特集・封印された原稿』が放送されました。遠藤は小説を通して、人が最も憎む存在を認め、ゆるしていくことができるのかを問い続けているのです。

 「沈黙」では日本宣教のために来日した司祭、ロドリゴ、彼はキチジローという日本人の手引きで宣教に奔走します。しかし厳しいキリシタン迫害の時代、キチジローは役人に問い詰められ、ロドリゴを密告します。そのため自らを裏切ったキチジローをロドリゴは弱い人間だと軽蔑します。ロドリゴのことば。「人間のうちでも、最もうす汚いこんな人間まで、基督は探し求められたのだろうかと…。」(「沈黙」より)

 しかし、その後、ロドリゴ自身も踏み絵を踏むこととなり、自らの弱さを知ります。

遠藤も、その執筆を通して、自らの弱さを見つめ「影に対して」が生まれるのです。「影に対して」では主人公と両親の間にある葛藤が描かれます。その小説の主人公の父親のモデルは、遠藤の父、恒久(つねひさ)。小説の主人公の母は、遠藤の母、郁(いく)がモデルです。遠藤は母の音楽に打ち込むその姿にあこがれます。しかし両親の離婚、父の別の女性との再婚、離別された母の孤独死。その母の死に対する父への憎しみ、小説原稿からは遠藤の現実の家族を書いた形跡が読み取れます。その自らの体験をも重ねた上で、人の弱さと向き合い続けた遠藤の宗教観が語られます。「本当の宗教とは、神も仏もないものか、というところ(絶望感)から始まる」と。

 本日のテキストから、教会の2022年度教会年間のみことば、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2:13)。このみことばが求め、選ぶ人とはどのような人かを学びたいと願います。

 

本論「弱さを知る者を神は選ぶ」

 本日のテキストのポイントについて神学者は、ペテロの否認が信仰者個人の不忠実、背任という問題よりも、弟子たちの自覚を超えた超自然的な力の支配の問題として描かれている点だと。イエス逮捕が、自覚しない超自然的力の下にあった(ルカ22:53)ように、ペテロの否認もまた、イエスだけが知っておられる力の下で動かされていた(ルカ22:61)。こうして、「暗やみの力」とイエスの祈られた(ルカ22:32)恵みの力との対立という視点が大切と言います。ですからユダとペテロの差は、人に迫る二つの力のそれぞれの捕らわれ人が、いかに異なる運命に至るのかを、私たちは知らなければならないのです。すなわち、弱さを知る者を神は選ぶということをです(Ⅱコリント11:3012:5)

 

Ⅰ.「自分を知らないペテロ」

 ペテロとイエスとの出会いは、兄弟アンデレの紹介によるものでした。

「イエスはシモンに目を留めて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。』」 (ヨハネ1:42)と。

 神学者はシモン時代の彼を『お人好し』で、良いことにも悪いことにも直情的に反応すると言っています。その彼にイエスは新しい名ペテロ、すなわち「岩」という名をつけます。それは、すぐに感情的になる彼が、リーダーとしてふさわしい資質、岩のように皆の心の基礎となる人物に成長するとの預言のようなものでした。しかし、残念ながら、聖書中イエスが「ペテロ」と呼ばれたのは、たった一回です(ルカ22:34)。しかも裏切り予告の中ででした。

 その彼の「シモン」っぷりが出るのは、イエスが水の上を歩いた時、彼も同じように歩けるように願い出て歩き出すところです。「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った。」(マタイ14:30)と。

そして、本日のテキストでも、イエスはご自身の受けられる苦難について、弟子たちにあらかじめ告げられました。さらにペテロには「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(ルカ22:32)と言われました。ペテロは、自分の信仰がなくなるという主のおことばに傷ついたのでしょうか。「シモンはイエスに言った。『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております』」(ルカ22:33)と決意をあらわします。しかし、結果は、イエスの言われたとおりになってしまいました。聖書中、ペテロことシモンは、よくイエスから目を離しますが、イエスは彼のことを心の中までよく知っておられたのです。ペテロが自分を知る以上に、イエスはペテロのことばや振舞、何よりも心を見つめておられました。

 

Ⅱ.「弱さを知る者を神は選ぶ」

 イエスが告げる「きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(ルカ22:34)に、ペテロの答えはありませんでした。直情的な彼のことです。感情が高まりすぎてことばにならなかったのかもしれません。

 しかし、現実は残酷にも、弱すぎる彼のありのままの姿を、イエスの前にさらします。鶏が鳴いた時、イエスのことば通りであったことを思い起こすのでした。イエスのために死をも恐れないという彼が、人を恐れて「知らない…ちがう…わからない」と言ってしまうのです。

 もしこのときの主のまなざしに「やっぱりやってしまったか、やると思った」という思いがこもっていたら、ペテロは立ち直ることができなかったでしょう。しかし、イエスのまなざしには「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」(ルカ22:32)とのことばを思い起こさせたのです。あらしの中で信仰は弱くなるかもしれません。自分では保てなくなるかもしれません。しかし、そんな弱さを知る私たちを主は支えて下さるのです。

 ですから、イエスは言われたのです。「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と。それはイエスから私たちへの兄弟姉妹の交わりの土台です。

 どんな信者も、大きな試練に対して無力です。失敗することもあるでしょう。その時には弱い自分は主に愛され、主に支えられているのだと、みことばを土台に立ち直らさせていただきましょう。ペテロも自らの弱さを知る中で、みことばにより、シモンからペテロへと一歩一歩成長していったのですから。

 

勧め)「弱さを知る者を神は選ぶ」

 「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)

まさに、自らの体験をも重ねた上で、人間の弱さと向きあい続けた遠藤周作のことば「本当の宗教とは、神も仏もないものか、というところ(絶望感)から始まる」が心に響くのではないでしょうか。主は私たちのすべてを知っておられます。主のまなざしの中にいつも自分をおいて、弱さの中にも赦しと回復を与えられる恵みに感謝して生きましょう。そのような人に。教会の2022年度教会年間のみことば、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2:13)は語られているのです。