旧約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「怒るにおそく」

葛西福音キリスト教会 聖書のお話し 2021年2月21日()

1.テキスト「第二サムエル記13章2331節」

2.タイトル「怒るにおそく」

3.中心聖句「ヤコブの手紙1章19・20節」

「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」

4.本文「怒るにおそく」

 序)「いきさつ」

  妹のタマルが辱めをうけて満二年が過ぎるころ、アブシャロムはエフライムの近くのバアル・ハツォルで羊の毛の刈り取りの祝いを催すことを計画します。アブシャロムは、父ダビデ王に祝いの集いへの出席を強く願います。しかし、ダビデ王は息子の招きを断り、アブシャロムを帰そうとします。それで次にアブシャロムは、第一王子のアムノンを王の代わりに来させることを強く願います。

 

本日のテーマ) 「怒るにおそく」

①「傷ついた妹タマルを気遣う兄アブシャロム」

   しかし、このときのアブシャロムの心中は、羊の毛の刈り取りの祝いではなく、別のところにあったのではないでしょうか。それは父ダビデ王が一向に長男で第一王子のアムノンの罪に対して正しい裁きを下さないでいたからです。罪を犯したアムノンに何の懲らしめも与えられないことに、王の心にある真意を確かめたかったのではないでしょうか。2年間、アブシャロムは父ダビデ王には父なりの考えがあるに違いないと自分自身やタマルを説き伏せ、復讐心を必死に抑え、沈黙を守り通して来たのではないでしょうか。兄アブシャロムが傷ついた妹タマルへかけたことばが聖書にこのように記されています。

(第二サムエル記13章20節)

『彼女の兄アブシャロムは彼女に言った。「おまえの兄アムノンが、おまえといっしょにいたのか。だが妹よ。今は黙っていなさい。あれはおまえの兄なのだ。あのことで心配しなくてもよい。」それでタマルは、兄アブシャロムの家で、ひとりわびしく暮らしていた。』

 

  しかし、正しい裁きが一向に下されないままの状況が続くので、妹タマルの苦悩は深まるばかりだったでしょう。アブシャロムは、自らの家にいる愛する妹タマルが、おそらく家に引きこもり日ごとにやつれ果てていく姿を見るに忍びなく、もはや耐え難くなり、妹を苦悩から救出するために行動を起こしたのではないでしょうか。

 

 ②「子どもの心に向き合わない父ダビデ」

  愛する妹タマルのため、兄のアブシャロムは、父ダビデ王の真意を確かめたくて、羊の毛の刈り取りの祝いへの出席をしきりに願ったのではないでしょうか。しかし、ダビデはアブシャロムの誘いをかたくなに断り続けます。そして話を打ち切り、アブシャロムを帰そうとします。

(第二サムエル記1325)

『すると王はアブシャロムに言った。「いや、わが子よ。われわれ全部が行くのは良くない。あなたの重荷になってはいけないから。」アブシャロムは、しきりに勧めたが、ダビデは行きたがらず、ただ彼に祝福を与えた。』

 

  最後の「彼に祝福を与えた」とは、ユダヤ文化の特徴で、話を打ち切るための別れの祝福のことです。京都の文化で言うならば、帰ってほしいお客へのセリフ「ぶぶづけどうどすか」(お茶漬けたべますか)でしょうか。ダビデはアブシャロムとかかわりを持つことが嫌で、早く帰したかったと思われます。おそらく、ダビデが誘いをかたくなに断り続けたのは、長男アムノンの不問にした罪を蒸し返さず、闇に葬り去りたかったのではないでしょうか。タマルとアブシャロムには、決して忘れることのできないことでも、ダビデにとってアムノンの一件は、過去の出来事になっていたと思われます。ダビデがしきりに懇願するアブシャロムに、「あなたの重荷になってはいけないから」と気遣うふりをして出席を断ります。しかし、アブシャロムにはダビデのことばは、タマルのことが「私の重荷になってはいけない」と言っているように聞こえたのではないでしょうか。アブシャロムは父ダビデに訴えたかったのではないでしょうか。羊の毛の刈り取りの祝いに招待することを重荷だと気遣ってくれるなら、なぜ妹タマルの苦悩や兄のわたしの嘆きに、悲しみに寄り添ってくれないのか。

 

③「アブシャロムの堪忍袋の緒が切れる」

  アブシャロムは気遣うふりをする父ダビデ王の態度に傷ついたのではないでしょうか。もし、ダビデが自分の心のうちにある傷つけられた愛する娘タマルへの思い、そして罪を犯し罰せられるべき愛する息子アムノンへの思いを正直に打ち明けたなら、アブシャロムの苦悩も少しは軽減されたのではないでしょうか。あるいは、ダビデがはっきりと「行きたくない」と断ったほうが、父ダビデ王の苦悩に触れることで父を少しは近くに感じたかもしれません。しかし、「あなたの重荷になってはいけないから」との口先だけの気遣いのことばは、怒りで決壊寸前のダムのようなアブシャロムの心に最後の一押しを与えたのではないでしょうか。

これは私たちの夫婦の間にも、親子の間にも見られるものではないでしょうか。本心を隠し、建前だけを口にして、対決を避ける父の姿に、子どもの心は拒絶感に打ちのめされることでしょう。アブシャロムの苦しみと怒りは行き場を失って暴走することになります。

(第二サムエル記132829)

『アブシャロムは自分に仕える若い者たちに命じて言った。「よく注意して、アムノンが酔って上きげんになったとき、私が『アムノンを打て』と言ったら、彼を殺せ。恐れてはならない。この私が命じるのではないか。強くあれ。力ある者となれ。」。アブシャロムの若い者たちが、アブシャロムの命じたとおりにアムノンにしたので、王の息子たちはみな立ち上がって、おのおの自分の騾馬に乗って逃げた。』

 

祈り(勧め)

  本日は「怒るにおそく」というテーマで聖書のお話をさせていただきました。聖書は人間が罪びとだと教えます。またクリスチャンになってからも過ちを犯すこともあるかもしれません。聖書は教えます。

「ヤコブの手紙1章19・20節」

だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

 

  まず、まだ神様を信じておられない方のためにお祈りいたします。私たちは自分が正しいと信じているから、相手が間違っているからと怒ることもあるでしょう。しかし、一呼吸おいて落ち着く時を持ちましょう。多くの人が感情に任せた怒りを爆発させて後悔した話を聞くのではないでしょうか。

そして、どうか、イエスの十字架を信じてください。そうするならば、私たちは神の愛を知り、相手に対するふさわしい行動とことばが聖書を通して、神から教えられることでしょう。

 

次に、神を信じておられるクリスチャンの皆様、地上を生きるクリスチャンも教会も不完全な面を持っているのです。そのためにあなたもわたしも、ピリピ教会にあったような自己中心や党派心、虚栄に傷つけられることがあるかもしれません。しかし、私たちは祈ることには早くても、怒ることにはおそくあるものでありたいと願い、またお勧めいたします。そして聖書のみことばに親しんでください。そして信じてください。私たちも、パウロのように「生きることはキリスト」なのですから。イエスがそうであったように、パリサイ人やサドカイ人、罪びとへのふさわしい対応と教えの知恵が与えられます。

 

 

イエス・キリストの御名によってお祈りさせていただきます。