旧約聖書から神様の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会


「私たちの道の光」

1.テキスト「詩篇119105112節」

2.タイトル「私たちの道の光」

3.中心聖句「詩篇119105節」

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

4.本論「私たちの道の光」

 序)不惑の年を越えて

本日の聖書個所を学びながら、ふと「不惑」ということばを思い出しました。「不惑」とは論語に由来のあることばで、40という歳を指します。漢字の意味通りにとれば、40年間も人間をやっていると、知恵と経験も積んでいるので何事にも、迷わないし惑わされないと言えるのでしょう。

しかし、私もかなり前に「不惑」の歳を越えています。それでも様々なことで迷いながら、後悔と感謝をくり返して生きてきた気がします。

また、2022年度の教会にも「不惑」とは言えないこともあるかもしれません。そのような時、「不惑」の歳を越えた牧師の私も、教会の皆様も何を頼りにして生きればよいのでしょうか。まさに、本日のテキストであり、中心聖句「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119105)に頼るのみではないでしょうか。では、皆様と共に「私たちの道の光」について聖書から教えられましょう。

 

本論) 「私たちの道の光」

 詩人は、ひどい苦しみと悲しみの中で、聖霊とともにこの詩を作りました。その苦しみとは同胞の、しかも上位の人からの苦しみと、死と同様の迫害でした。詩人も迫害者も共に、聖書に生きる仲間であったはずでした。そのことがさらに、詩人の心と信仰を悲しみでかき乱していたことでしょう。

 その様な中、詩人はこの詩に祈りと決意を込めています。その悩みと迫害の中にあっても、神の救いを求める祈りと、みことばの力を知っているのでどんな危機にあっても、それを守る決意があるとの信仰告白をしているのです。

 

Ⅰ.「人生の道は何で照らす?」

 普通、暗い夜道はライトやランプで照らせばよいでしょうが。「人生の道」「教会の進む道」は何で照らせばよいのでしょうか?

 もし、光なしで暗やみを歩けば、右に行くのか、左に行くのかと。私たちはどちらに進むべきなのかわからずに、迷子になってしまいますね。

 そのような時、皆様はどうなされますか。そのような時、人々の足が向くのは、「警察」、「占い」、「教会」でしょうか。道に迷う、また電話でお金の相談をされたら、もちろん「警察」に行きましょう。大切ですね。

「占い」には多くの人が興味を引かれるものではないでしょうか。占いはテレビや雑誌、ネットなどでも身近なところにあふれています。しかし、占いには悪魔が働くので、やめましょう。

 

Ⅱ.「みことばこそ、光」

 ではどうすれば、よいのでしょうか。それは人生に迷ったら、教会に行くべきです。なぜなら、教会で語られる聖書のみことばには神様の導きと力が働いているからです。

 この詩の作者も、困難な状況の中にいたようです。「ひどく悩」み、「いつもいのちがけでいなければなりません」、「悪者は私に対してわなを設けました」と大変な戦いを経験していたようです。同じように私たちにも逃げ場のない人間関係のストレスや仕事、家庭の問題があるのではないでしょうか。

 しかし、作者は悩みの中にあって、神のことばと教えを守るとの信仰告白をしています。苦しみの中での最大の危機は、神の教えから心が離れてしまうことなのです。作者は神に向かって、感謝、賛美、あかしをささげながら、力強く語られる神のことばを待ち望んでいます。

 

Ⅲ.「私たちの道の光」

 私たちもこの詩の作者と同じように生きたいと願います。それが暗闇や試練、迫害、悪意の中を生き抜く秘訣だからです。それであるので。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

(詩篇119105)

 人生を照らす光、それはもちろん、聖書に記された「神のみことば」です。常に世界のすべてを見ておられ、特にイエスの十字架を信じる人々を良く見守っておられる神がおられるのです。私たちが人生を生きる上で、どう歩んだらいいのかをみことばが教え、最善に導いてくださいます。

 

勧め)「私たちの道の光」

 危機の時にみことばの導きを得るために、普段の生活の中での積み重ねが必要です。毎日、一歩一歩の歩みの中でみことばを握り、その生きる歩みを神にゆだねるなら、いざという時にも神の手の中に安らぐことができるのです。

 また、そのような神のみことばによる道の光をいただくためにも、すべての人にイエスの十字架を信じて救われていただきたいのです。信じてください。

 

 そして教会も同じです。2022年度の中で、暗闇を歩く時があろうとも、みことばは足のともしび、道の光となるのです。信じましょう。