新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「愛される子になる」

葛西説教20201011

1.テキスト「マタイの福音書4章1から11節」

2.タイトル「愛される子になる」

3.中心聖句「イザヤ434節」

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

4.本文「愛される子になる」

 序「エデンの東における愛の欠乏」

最近、エデンの東という映画をテレビで見ました。この作品は、アメリカの作者のジョン・スタインベックが1952年に発表した小説で、父親からの愛を切望する息子の葛藤、反発、和解を描いた作品です。本日は、すべての人には愛が、特に神の愛が必要であることをともに学びましょう。

 

タイトル) 「愛される子になる」

1.イエスは神の子の証明を求められた。

  さきほど、司会者の方にお読みいただいたように、先週のお話しの続きです。バプテスマのヨハネの洗礼を受けたイエスは、その直後に天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ福音書3章17節)という父なる神の声をいただきました。それはイエスが愛される神の子であり、その存在は喜びの存在であるとの証明が与えられたのです。

  その後、聖霊により荒野に導かれ、40日40夜の断食をされました。その後、悪魔がイエスを誘惑に来ました。悪魔とは、誹謗中傷する者との意味です。すなわち、イエスを誹謗中傷し、おとしめるために悪魔が来たのです。

  では、悪魔はイエスの何をおしめたいのでしょうか。それはイエスが父なる神から愛される神の御子であることです。そのため悪魔はイエスに神の子であることを証明してみよと迫ったのです。

 

(マタイ福音書4章6節)

「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

 

  悪魔はイエスに向かって「父なる神に愛されている子」であることを証明するよう要求します。しかし、イエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(マタイ福音書4章7節)と悪魔の要求に応じませんでした。それは、子どもは自分が子であることを証明する必要はないのです。子どもである証明は父親の責任だからです。

  この誹謗中傷する者である悪魔は、このような問いかけをすべての人、特にクリスチャンにも、あなたは親に愛される子ですか、神に愛される子であることを証明しなさいと、私たちに迫って来るのです。そのため、たとえクリスチャンであったとしても、「わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という神の声を忘れ、信じられなくなるときもあると思います。

  神学者もそのような私たちに対する悪魔の声についてこのように述べています。「自分に価値があることを証明しなさい。・・・注目を浴び、威勢のよいことをしなさい。そうすれば、あなたがたが欲しがっている愛は得られる」と。私たちは、自分に愛される価値があることを証明せよとの悪魔の誘いの声を受けるのです。「あなたは愛される子ですか」「あなた愛される神の子どもですか」と。その結果、いつか私たちは、自分に愛される価値があると証明することが人生の目的となってしまうのです。しかし、どうでしょうか。私たちがそのことを証明しようとすればするほど、敗北感、無力感、虚しさが残るだけではないでしょうか。

では、私たちはこのような悪魔の声にどのように答えるべきなのでしょうか。それはイエスの模範にならうべきなのです。イエスは聖書のことばで悪魔の意地悪で、理不尽な要求に対抗されました。

 

(マタイ福音書4章7節)「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

 

これは、かつてイスラエル民族がマサで主を試みたことからの教えです。神が共にいて守ってくださるかどうかは、水が出るか、または飛び降りても支えられるか、という不敬虔な実験によって確かめられるものではないのです。それは神の愛への信頼と従順を通して体験されるのです。イエスのこの答えは、神を信じ神に従え、ということです。

 

2.愛が人の存在を肯定する。

  人に愛が必要であることについて聖書にはこのように記されています。

 

(箴言1922)「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」

 

人が自分の存在を肯定し、かつ喜ぶためには、決して変わることのない無条件の愛が必要なのです。私たちが自分の価値を証明することで受け取れるのは、条件付きの愛でしかありません。しかも、自分の価値を証明しようと試みれば、試みるほど、無条件の愛は遠ざかります。神学者はここに多くの人が愛を慕い求めながらも神の愛を受け取れない理由があると言います。人は神を信じにくく、自分自身や目に見えるものを信じやすいものなのですね。聖書は教えています。

 

(イザヤ434)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 

しかし、神を信じる者に、神はあふれんばかりの愛をとこしえに与え続けられるお方です。そのことのゆえに、まさに愛が神を信じる者自身に尊い価値を生み、その価値を永遠に与え続けるのです。

ですから、どんな人も、神を信じるとき、自分がこの世に生を受けたことを、本当の意味で喜べ、そしてその命を尊く思えるのです。

そのようにしてくださったのはイエスです。私たち、人は皆、神の前に罪を犯し、神の愛される子ではありませんでした。それは旧約聖書の創世記のアダムとエバから始まり、今日に至るまでずっと続いているのです。しかしイエスの十字架が罪によって隔てられた神と私たちの間を赦しのみわざによって回復されました。そして私たちは神に愛される子どもとして、新しいいのちをいただいたのです。

 

3.十字架の愛こそ、人の存在を肯定する

  そのイエスの十字架とはどのようなものであったのでしょうか。聖書にはこのようにあります。

 

(マタイ福音書2740~41節)

「『神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。』同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。」

 

  十字架でくぎ付けされたイエスを見て、道行く人々は、イエスが自分を救うことで神に愛されている子どもであると証明するように要求しました。十字架を見ていたユダヤ人には「神に呪われた者」(申命記21章23節、ガラテヤ人への手紙3章13節を参照)として見えたでしょう。

  しかし、イエスの十字架は神のご計画でした。イエスご自身が全人類の罪を一身に背負い、「神に呪われた者」として十字架にくぎ付けされたのです。神学者はイエスが十字架のお苦しみの中、人々の罵声と怒号が飛び交う中、イエスの心には「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」との父なる神の声が静かに響いていたに違いないと言います。また、イエスが神に愛されている子であることは、父なる神だけが証明できるのだと。そしてこれはすべての父親、父親代わりの大人の責任でもあるのです。