旧約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「愛は多くの罪をおおう」

葛西福音キリスト教会説教2021411()聖書のお話し

1.テキスト「第二サムエル記14章28節から15章1節」

2.タイトル「愛は多くの罪をおおう」

3中心聖句「第一ペテロの手紙48節」

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」

4.本文「愛は多くの罪をおおう」

)「大切なのは愛」

よく贈り物を渡すときに使うことばとして、「つまらないものですが」と言います。これは日本特有の習慣だと思いますが、よく考えると変ですよね。つまらないものなど誰もいらないし、ゴミになるかもしれません。しかし、それが日本人の奥ゆかしさなのでしょうか。心をこめた贈り物に「つまらないものですが」との謙遜の言葉を添えて手渡す。大切なのは、表面上に現われるものよりも、見えませんが愛なのですね。

 

本日のテーマ) 「愛は多くの罪をおおう」

本日も、私たちの罪の問題。また家族の問題に対して聖書からの声に耳を澄ませたいと思います。なぜ、か?それは、聖書はいつも誰かの話を語っているのではなく、私たちの話を語りかけているからです。そして聖書の語りかけに皆様が耳を傾けるとき、私たちの問題の唯一の解決を知ることができます。その解決とは、イエスの十字架です。

 

Ⅰ.「愛のない親子」

 本日のテーマは「愛は多くの罪をおおう」です。果たして、父ダビデ王と息子のアブシャロムの間に親子の愛は取り戻せるのでしょうか。父ダビデ王と息子のアブシャロムの和解のシーンがあります。

「第二サムエル記14章33節」

「それで、ヨアブは王のところに行き、王に告げたので、王はアブシャロムを呼び寄せた。アブシャロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブシャロムに口づけした」

 

 これは二年間、アブシャロムがエルサレムに戻ってからも、ダビデから謹慎を言い渡されて放置され、父ダビデ王との和解ができずにいましたから、涙なしには語れない、親子の和解のシーンのように思えるかもしれません。

しかし、この親子の和解のシーンは互いに演じられていたとされています。神学者は言います。地にひれ伏して礼をしたのは宮廷エチケットにすぎないと。また、ここで全く王の感情が聖書に描かれていないのは、ダビデ王も形式的和解をしたにすぎないことを暗示していると。ダビデとアブシャロムの問題は、宮廷エチケットや儀礼的口づけで片づくものではありませんでした。そして、その結果、アブシャロムは戦いの準備をします。

「第二サムエル記151節」

「その後、アブシャロムは自分のために戦車と馬、

それに自分の前を走る者五十人を手に入れた」

 

 なぜ、父ダビデ王と息子のアブシャロムは真の和解ができずに、この後、互いにいのちをかけて王位を奪い合うことになるのでしょうか。それは愛のない形だけの和解を、互いに演じているからです。愛のない和解や親ぼく、交わりなどむなしいだけだからです。

 

Ⅱ.「愛は罪をおおう」

 愛の問題を解決するためにはどうすればよいのでしょうか。そのことについて聖書はこのように語ります。

「第一ペテロの手紙48節」

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」

 

 これは、本日の中心聖句ですが。このことばは箴言からの引用です。箴言では。

「箴言1012節」

「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう」

 

誤解を招かないように言いますが、愛は、罪をごまかして隠すのではなく、時には戒め、罰を与えることもあるのです。ですから、聖書は愛のわざとしての戒めをこのように語ります。

 

「箴言2756節」

 「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」

 

皆様に知っていただきたいことは、ただ罪を責めるだけでは、人は決してその罪から離れることはできないということです。むしろ愛が人を神の悔い改めへと導くと聖書は教えるのです。

ですから、父ダビデ王とアブシャロムの間に愛がないとき、それはすべてがむなしくなってしまうのです。もし愛があったのなら、愛が罪を犯した人のうずいている心を包み、赦し、いやすのです。ただ、この愛は人間から生み出されるものではありません。

 では、どうすればよいのでしょうか。どこに、「愛は罪をおおう」の愛はあるのでしょうか。それはイエスの十字架に現わされた神の愛だと聖書は語ります。

「ヨハネの福音書316節」

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」

 

 この十字架で現わされた神の愛が必要なのです。このイエスの十字架を信じるとき、私たちは罪を赦されるのみか、神の愛の中に生きる者へと変えられるのです。

 ですから、このように勧められています。

「第一ヨハネの手紙47節」

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」

 

 神を信じる一人ひとりは、神によって新しく生まれた者として、神から出る愛で、互いに愛し合うことができるのです。この愛が「多くの罪をおおう」のです。この愛が父ダビデ王とアブシャロムには必要だったのです。

 

勧め) 「愛は多くの罪をおおう」

 「愛は多くの罪をおおう」のです。この愛が今、夫婦に、親子に、両親との間にあるとき、はじめて、私たちは祝福された家庭を築くことができるのです。

 ですから、イエスを信じておられない方は、イエスを信じて、神の愛、真の愛を得てください。また、イエスをすでに信じておられる方は、自分の救いを思い出してください。そこにしか真の愛はないのです。夫婦に必要な愛、親子に必要な愛、隣人を愛する愛はそこにしかないのですから。