旧約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「神の愛に生きる」

福音伝道教団・葛西福音キリスト教会 聖書のお話し2021620()

1.テキスト「第二サムエル記18918節」

2.タイトル「神の愛に生きる」

3.中心聖句「ローマ 5:8

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」

4.本文「神の愛に生きる」

)「家族の愛の難しさ」

 社会の変化は目覚ましく、家族の価値観が継承されにくい時代になってきています。家族の基盤すら揺さぶられているのが現代の社会です。しかし、このような中にあっても、社会の最小単位は家族ですので、健全な社会を育成するには、健全な家族の存在が不可欠です。

 しかし、聖書においても問題がある、うまくいっていない家族が多数登場します。人類最初の家族には、兄が弟を倒す悲劇が起こりました。預言者サムエルの二人の息子でも、「この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた」(Ⅰサムエル8:3)と。そしてダビデ自身も、弱腰の父、怒りにこもる父、逃げ出す父でした。そのため息子アブシャロムがどれだけ慕い求めても真正面から向き合おうとしない父への失望と憎しみは深まるばかりでした。この父へのつまずきは父なる神へのつまずきともなると言われています。ですから父につまずき、父なる神につまずいたアブシャロムの暴走は、もはや止まりませんでした。その暴走の果てにアブシャロムはいのちを落とします。

 

本論) 「神の愛に生きる」

Ⅰ.「父ダビデの嘆き」

 アブシャロムは父ダビデのいのちを狙い、反乱を起こしました。しかし、百戦錬磨のダビデの家来たちがアブシャロムの側につく兵士を圧倒し、二万人を倒しました。そこでダビデは家来たちに、息子アブシャロムのいのちだけは奪わないようにと命じます。ですから、敗走するアブシャロムが、木にその頭をひっかけた際には、ダビデの家来は手を出さず将軍ヨアブに報告だけします。しかし、将軍ヨアブは手を出さなかった部下を叱責し、自ら槍を手にし、アブシャロムを死に至らしめます。

 そしてアブシャロムの死が父ダビデ王にもたらされると、彼は泣き叫びます。

「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ」(Ⅱサムエル記18:33)

 

 なぜ、ダビデは自分の本心を息子に伝えなかったのでしょうか。代わりに死んでもいいと思うのなら、なぜ死ぬ気で息子のもとに駆け寄らなかったのでしょうか。

 

Ⅱ「愛することへの恐れ」

そこには、愛の障害としての愛を拒絶されることへの恐れがダビデにあったのではないでしょうか。ダビデは、長男アムノンの罪を正しく扱わなかったことが引き金となり、アブシャロムの手を復讐の血で染めてしまったことに責任を覚えていたことでしょう。そして、ここアブシャロムの死に至っては、ダビデは父としての自信を完全に喪失していたのではないでしょうか。そして後悔のことば「私がおまえに代って死ねばよかったのに」と泣き叫ぶことしかダビデには残されていませんでした。もし、ダビデが本気で愛することができたなら、このようなことにはならなかったのではないでしょうか。

ドイツの社会心理学者(新フロイト派)、エーリッヒ・フロム(1900-1980)はこのように言っています。「愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすこと」と。

 そして聖書は、完全な愛を私たちに現わしてくださった方がおられることを教えます。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ 5:8)

 

 このイエスの十字架の死が「私たちに対するご自身の愛を明らかに」したのは、死という究極の代価を払ったからではありません。聖書は犠牲的行為と愛の関係をこのように教えます。

「私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(Ⅰコリント 13:3)

 

 ですから、真実の愛は「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」から真実の愛なのです。すなわち、人が神の愛の犠牲、十字架の死を受け入れる保証が全くないにもかかわらず、ご自分のいのちを死に渡されたことが真実の愛の証明なのです。愛が受け入れられることを担保、保証された上で愛することは神の愛、アガベではないのです。

 

Ⅲ.「神の愛に生きる」

 しかし、聖書は人のうちには神の愛はないと教えます。「あなたがたのうちには、神の愛がありません」(ヨハネ 5:42)

 

では、どうすれば、神の愛に生きることができるのでしょうか。聖書には神の愛について、聖霊と祈り、そしてみことばを通して私たちが、神の愛に生きることができると教えています。

 

①聖霊の恵みによって神の愛に生きる

 聖書は聖霊の恵みによって神の愛が私たちの心に注がれていると教えます。

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ 5:5)

 

②祈りによって神の愛に生きる

聖書は祈りを通して神の愛に生きることを教えています。

「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように」(Ⅱテサロニケ 3:5)

 

③み言葉を守ることによって神の愛に生きる

「みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです」

(Ⅰヨハネ 2:5)

勧め)「神の愛に生きる」

聖書は教えます。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ 5:8)。ですから、まだ、イエスを信じておられない方がおられましたら、この神の愛を信じて救われていただきたいと願います。また、クリスチャン一人ひとりがこの神の愛を証し、一人でも多くの魂を救いに導くために神に用いられていただきたいと願います。

 

また、本日、神の愛に生きると題してお話しさせていただきました。今、夫婦や家族、そして社会は愛に飢えているのではないでしょうか。今ほど神の愛が求められている時はないのです。ですから、クリスチャンの皆様、聖霊と祈り、みことばを守ることを通して神の愛に生きる一人ひとりとさせていただきましょう。