旧約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「正しい怒り」

葛西福音キリスト教会説教20201115()

1.テキスト「第二サムエル記13章19節から23節」

2.タイトル「正しい怒り」

3.中心聖句「詩篇8510節」

「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。

4.本文「正しい怒り」

 序)「ダビデの怒り」

正しい怒りとは何でしょうか。それは正しい愛がある怒りではないかと思います。ダビデはアムノンを正しく裁けたのでしょうか。聖書にはこのようにあります。

 

(第二サムエル記1321)「ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った。」

 

しかし、神学者は大胆にも末尾に「しかし、彼はその子アムノンのきげんを損ねなかった。彼が長子なので愛していたからである。」を加えるのがよいと言います。ダビデの怒りは正しい裁きに基づかず偽物でした。本日は、正しい怒りについて聖書から教えられたいと願います。

 

テーマ)「正しい怒り」

1.「神の正義は、怒りは正しいのでしょうか。」

 神の正義は、そして怒りは正しいのでしょうか。

 イエスは、父なる神がキリスト者を神の子として受け入れ、無条件の愛を注いでくださる証は、正しい裁きが必ず行われることが保証になると、このように教えられました。

 

(ルカの福音書18章7-8)

「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

 

イエスは父なる神は正しいお方であり、必ず正しい裁きが行われる、だから父なる神に信頼しなさいと教えられました。

 

2.「神の不正義への怒り」

しかし、逆に正しい裁きがないがしろにされ、理不尽な状態が続くとすると、その失望と落胆は大きな神へのつまずきとなります。ダビデ自身もそのような思いを、このように詩篇に告白しています。

 

(詩篇73篇2-3)

「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。」

 

  神への不信感と怒りは、正しい裁きがないがしろにされていることへの失望と落胆から生じます。先のルカの福音書18章の「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」とのキリスト者の信仰が激しく揺さぶられるのは、神の正しい裁きへの確信が揺らぐ時なのです。

旧約聖書で有名な預言者ヨナは、神がイスラエルの敵であるアッシリヤの首都ニネベの民にあわれみを示されたことに激怒します。そして神を非難し、このような文句を言いました。

 

(ヨナ書42)

『主に祈って言った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」

 

ヨナは怒っていました。神がイスラエルの敵の滅ぼすべきニネベの人々に、正しい裁きをないがしろにしたと。

 

3.「神の義と神の愛はキリストの十字架で交わる」

 しかし、神の義と神の愛は交わるのです。それはイエス・キリストの十字架で交わるのです。神の義は裁きで正義を求めますが、同時に神の愛は罪びとをあわれみ正しい道に導かれます。その神の義がしめす「まこと」と神の愛が与える「恵み」の交わりについては。

 

(詩篇8510)

「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。」

 

このようにキリストの十字架を見るようではないでしょうか。また、神のあわれみと神の愛について、律法においてもモーセを通して教えられています。

 

(出エジプト記346-7)

「主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

 

神が一度神の指で書かれた十戒の石板を割ったモーセに、再び律法を授けるときに宣言されたおことばです。まさに、キリストの十字架にあらわされた神の愛とその救いを、このことばに見るのではないでしょうか。

 しかし、「罰すべき者は必ず罰して報いる者。」とあるように、救いは神と共に生きるため、神を礼拝する民となる入り口なのです。新しい生き方が救われたすべての人に求められます。

ですから、ヨナは神が正しい裁きを思い直し、アッシリヤの罪を見過ごしたと憤りましたが、彼の神への非難は見当違いのものでした。神はニネベの人々の罪を無罪放免にしたのでも、正しい裁きを曲げたのでもないのです。深いあわれみによって裁きを延期したに過ぎないのです。まことの悔い改めでなかったので、この後の時代、神はアッシリヤの上に厳しい神の正義による裁きをくだされました。

 

(イザヤ書10章12節)

「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。」

 

神は絶対に罪を見過ごされることはないのです。義なる神の正義は、いかなる罪をも見過ごすことはないのです。この神が義なるお方であることがキリスト者の信仰の基礎であり、この土台が揺らぐと信仰は激しく揺さぶられるのです。同じようにアブシャロムは父ダビデの怒りが偽りであることに、アムノンと共に、父ダビデへの怒りに燃えることになるのです。

 

祈り・勧め)「正しい怒り」

① 本日は正しい怒りを父なる神に学びました。正しい怒りとは、正義と愛が交わるところにあるのです。ですから、感情的に子どもを傷つける、暴力を伴う怒りは相手を正しく導くことはできないのです。特に皆さんの愛する子どもには止めましょう。もし、神の正義と愛にあなたが学びたいのなら、イエスの十字架を自分のためであったと信じてください。それはこの世の誤りの根本原因が私たちの罪にあるからです。その罪からイエスの十字架により救われてください。

 

 

② また、すでにイエスの十字架を信じた、クリスチャンの皆様へ。罪の赦しは新しい生き方のスタートなのです。新しい生き方とは、神と共に生き、そして神を礼拝する民として生きることです。あの神のさばきを逃れた罪深いニネベの人々のようにならないでいただきたいと願います。