新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「倒れても、主の手がある」

福音伝道教団-葛西福音キリスト教会 礼拝聖書のお話し20211024()

1.テキスト「マタイ14:22-33

2.タイトル「倒れても、主の手がある」

3.中心聖句「詩篇37:24

「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」

 

4.本文「倒れても、主の手がある」

 序)「クリスチャンも人間だもの」

 書家の相田みつをは「しあわせは自分のこころが決める」などの作品で読む人の心に感動与えています。そのことばのなかに、有名なことば、「人間だもの」というものがあります。人生いろいろあるけど、それが生きるということみたいな感じで読む人のこころを軽くしてくれていますね。

 本日の聖書個所についても神学者であり説教者でもあったバークレーは、「聖者とは、絶対に倒れない人ではなくて、倒れても立ち上がって前進する人である」と言っています。

 それで、本日のテキストのメッセージの中心聖句を。

(詩篇37:24)「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」とさせていただきました。

そしてタイトルは「倒れても、主の手がある」とさせていただきました。

 

本論) 「倒れても、主の手がある」

 「それから」で始まる22節からの主の物語は、聖書を読む私たちに信仰とは、またイエスの弟子とは何であるかを教えようとしています。それは「五千人の給食」の奇跡の後に、並行記事のマルコ、そしてルカ、ヨハネも同じように、この二つの物語をセットにしていることからもその大切さを私たちに教えています。

 

Ⅰ.「弟子たちを強いて舟に乗り込ませ」

 まず22節で、なぜ、イエスは弟子たちを強いて船に乗り込ませたのでしょうか。

 その意味は、イエスを政治活動に引き込もうする群衆の興奮・熱気に弟子たちが巻き込まれるのを防ぐためでした。せっかく、ある種の成功体験を多くの群衆とともに行われ興奮状態であったのに、解散されました。それは群衆の感情的熱狂から生じる野心を冷却させる意味があったのではないでしょうか。人・もの・金というこの世の力のシンボルに背を向け、イエスのことばが教える真理に人々の心を向けることにあったのではないでしょうか。

(マタイ14:22)「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。」

 

 そして、イエスはクリスチャンや教会に一番大切なことをされました。

(マタイ14:23)「群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」

 私も以前、会社で働いていた者として、人・もの・金というこの世の力のシンボルが人間の道具として、いかに大切かを知る者です。この世で、社長や事業を起こそうとするなら、先の力のシンボルを用いることを知らなければ、何かをなすことは難しいでしょう。しかし、アダムの事件、バベルの塔事件以降、人間は神のことば、イエスの十字架、そして神との交わりなくして、最善であり神の栄光にふさわしいものを生み出すことはできないのです。

 

Ⅱ.「倒れても、主の手がある」

 その後、弟子たちはどうなったのでしょうか。向こう岸を目指し出発した彼らは、沖で向かい風に悩まされ思うように進むことができません。彼らはプロの漁師ですが、夜通し漕ぎ、疲労こんぱいした深い暗闇の午前三時頃、イエスが水の上を歩いて来られるのを見た。

 しかし、弟子たちは「あれは幽霊だ」と言って叫び声をあげるばかりの不信仰。

 そのとき、私たちの救い主であり、主なる神であるイエスは言われました。、

(マタイ14:27)「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と。

 私たちも、厳しい現状に捨て置かれたような思いになって不安と恐れに捕らえられ、不信仰に支配されてしまうことがあります。主イエスのことばにしたがって船出したのに、暗闇の中、逆風で希望も自信も失い疲労こんぱい。

 しかし、私たちがイエスとそのみことばに従っているなら、暗闇も逆風も決して恐れることはないのです。なぜなら、イエスはどんな状況の時にも私たちのことを見ておられ、執り成していてくださるからです。そして、闇が最も深くなる時、私たちの思いもよらない方法で、私たちを助けるために近づいてくださり、船に乗り込んできて、すべてを支配し静めてくださるのです。

 だから、「倒れても、主の手がある」のです。

(詩篇37:24)「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」

 最後に付け足すようですが、31節「信仰の薄い」とは、「信仰がない」のではなく、「信仰が少ない」「信仰が足りない」という意味です。信仰とは、主と主のことばに信頼することです。ペテロがすべきことは、イエスの「来なさい」のことばのみを頼りにして、イエスから目を離さないで歩むことでした。31節「疑う」は「二つに分かれる」です。一方では信じつつも、他方では嵐に気を取られて、心が二つに分かれてしまうことです。

(ヘブル12:2)「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」

 

勧め)「倒れても、主の手がある」

 最初に相田みつをのことばを文字って「クリスチャンも人間だもの」と話しましたが、イエスの五千人給食の奇跡を体験した弟子たちですら、失敗するのです。ペテロですら、最後まで信じ抜くことができなかったのです。私たちも同じ体験をすることもあるでしょう。

 しかし、心配することはありません。

(詩篇37:24)「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」

 ですから、私たちの罪を赦し、人生を支え、天国に導いてくださるイエスを信じましょう。イエスの十字架は私の罪の赦しのためであると信じましょう。そうするなら、天国への扉が開くとともに、この地上の人生を賢く生き抜く知恵と力、チャンスを神の祝福としていただけることでしょう。