旧約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会


「ゆるすこと」

福音伝道教団-葛西福音キリスト教会 礼拝聖書のお話し202181()

1.テキスト「申命記25:17-19

2.タイトル「ゆるすこと」

3.中心聖句(Ⅰコリント13:5)人のした悪を思わず」

4.本文「ゆるすこと」

)家族を喪失

 『愛する人を失うとき』(日本語訳:朝倉秀之訳 教文館)の著者G.L.シッツアーさんは、家族と車で帰宅途中、飲酒運転の車に正面衝突され、愛する妻と母、娘を一瞬にして失いました。

 

本論)「ゆるすこと」

 本日のテキストで、神様はイスラエルの民に、アマレクの人々の罪を忘れてはならないと命じました。なぜ、憐れみ深い神様が、相手の罪を忘れてはならないと命じられたのでしょうか。憐れみ深い神様は赦しの神ではないでしょうか。神の正義と赦しはどのような関係なのでしょうか。家族を失ったシッツアーさんは裁判で法の正義を期待しますが、更に傷つけられることになります。こともあろうに、相手の運転手が罪に問われることはなかったのです。

 

Ⅰ.「沸き立つ怒り」

 シッツアーさんは、自分の母、妻、娘のいのちを一瞬のうちに奪った相手の運転手を心底憎みました。その憎しみは、飲酒運転の加害者の運転手に極刑が下されることへの強い願望となっていました。いよいよ、判決が言い渡される日が訪れました。この裁判についての大方の見方は有罪でした。シッツアーさんは裁判で法の正義が行われ、極刑が言い渡されて泣き叫ぶ加害者の顔が見たかったのです。しかし、判決は大方の予想を覆して無罪となりました。彼は自分の大切な三人の家族の命を奪った相手の運転手が、自分が味わった苦痛以上の苦しみを味わうことを願い続けていました。その復讐への思いが事実、彼の生きる支えともなっていたのです。復讐こそが正当な行為であると信じて疑いませんでした。確かに、彼の気持ちに寄り添えば、ゆるしを求める声は理不尽な要求に思えるでしょう。私たちも同じ目にあえば、口が裂けても「ゆるしなさい」などとは言えるはずがないとも思えるかもしれません。

 

Ⅱ.「アマレクの悪行」

 指導者モーセに率いられて奴隷の地、エジプトを脱出した、約200万とも言われるイスラエルの人々が、約束の地カナンを目指して旅を続けていたとき、弱っている人たちが列から遅れていきました。しかし200万の人々は、主が定められた宿営地に到達するまで足を止めることはできません。遅れた人々は一つの群れとなり、宿営地を目指し一生懸命に急いでいました。しかし、その弱った人々の無防備を狙って、アマレクの人々は襲い掛かりました。そして容赦なく剣で切りつけ、所持品も奪われたことでしょう。神様はアマレクの人々の罪が、時とともに風化することがないように「アマレクがあなたにした事を忘れない」ようにと命じられたのでした。赦しの神は、悲劇を一日も早く忘れ、アマレクの人々を赦しなさいとは言わず、アマレクの人々のひどい行いを絶対に忘れてはならないと命じられました。みことばもこのように教えています。

(ヘブル9:22)「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」

 神様がイスラエルの人々に向かって、「アマレクがあなたにした事を忘れないこと」と命じられたのは、罪が赦されるためには償いを必ず必要としているからです。自分に対して犯された罪を忘れない。罪のための償いは正当に求めなければならないのです。

 かのアダムの息子の兄、カインは弟アベルを手にかけて殺したことを神様に問い詰められた時、「知りません」としらを切ります。すると神様は。

(創世記4:10)「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる」

 神様は罪びとカインに、流されたアベルの血が償いを求めていると。まことに罪は償いの血が流されることでしか赦されることはないのです。

 聖書は、イエス・キリストの十字架で、私たちの罪の償いの血が流されたと教えます。どんな人も、イエスの十字架を信じるならば救われるのです。もし、あなたがまだ、イエスの十字架を信じておられないなら、ぜひ、信じて救いを受けてください。

 

Ⅲ.「ゆるすこと」

 神様はアマレクへのさばきとしてこのように言われました。

(申命記25:19)「あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。」

 そのことば通り、イスラエルの人々とアマレクとの戦いは、士師の時代、サムエル、そしてダビデによってアマレクは徹底的に屈服され、ダビデ王国確立と共にアマレクの攻撃がやんだとされています。

 ある人はこのように言っています。「アマレクの記憶を天の下から消し去」るとは、アマレクへの絶滅を意味するとともに、アマレクが神のさばきを受けたとき、もはや彼らの非道な残虐行為を思い出してはならないのだと。イスラエルの人々が約束の地で安息を得たとき、アマレクの記憶を消し去ることを神様が求めたのは、悲惨な体験を憎しみ抜きに語り継ぐためだと。神様はイスラエルの民がアマレクの残虐行為を後世に語り継ぐことで憎しみを増幅させることを願わなかったのだと。聖書も。

(Ⅰコリント13:5)「人のした悪を思わず」と。

 このように、パウロも神の罪人に対する和解の恵みを示すために、人のした悪を記録しないこと、数えあげないことを教えています。

 ですから、私たちは罪に対して、怒りが燃え上がるときにも怒りに身をゆだねず、神のさばきにゆだねる者でありたいと願います。それが、聖書が語る神の和解の福音を聞き、信じ、伝え、生きる者の現実のあるべき姿なのです。シッツアーさんは言います。「許すことは忘れることではない。…イエス・キリストは『この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのです』(ルカ 7:47[新改訳2017)と言った。赦されるという体験によって、私たちはゆるすようになる。神の慈悲を必要とする人間として自分自身を見つめると、私たちは、さらに他の人々に慈悲を示すようになるであろう」と。

 

勧め)「ゆるすこと」 

 

 どうか、イエスの十字架を信じてください。イエスの十字架はあなたを救い、あなたは神の愛に生きることができるようになるのです。また、今、あなたは苦しく、悲しい問題に囲まれていませんか。怒りのおさまらないゆるすことのできない人はいませんか。聖書の神様は、正義の神であり、慈愛の神でもあります。神様に問題をゆだねる祈りをささげてみませんか。そうするとき神様はあなたにとって最善の考えや行動に導いてくださいます。そしてあなたの心に神の愛に基づく、相手をゆるす思いを与えて下さいます。