旧約聖書から神様の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「神様の摂理は祝福に至る」

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福音伝道教団-葛西福音キリスト教会 礼拝聖書のお話し 202195()

1.テキスト「ヨブ記1:1-5

2.タイトル「神の摂理は祝福に至る」

3.中心聖句「ロ-8:28

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

4本文「神の摂理は祝福に至る」

 序)「ヨブ記の不可思議さ」

 多くの聖書を読まれる方々が、ヨブ記の不可思議な内容に戸惑うのではないでしょうか。

(ヨブ記1:1)「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」と。

 聖書はこのようにヨブを紹介しています。ヨブほど「悪」から遠ざかった人物はいなかったと。このような人は、神様から祝福は受けても、災いを受ける人ではありません。もし、ヨブが神様から災いを受けなければならないとしたら、神を信じ、聖書を学ぶすべての人々の望みは断たれてしまうのではないでしょうか。しかし、神様は彼に災いを下されたのでした。なぜでしょうか?

本日からしばらく、月の第一日曜日は、神様が人に試練をくださる意味。また、神様の摂理とは何か。そしてこの学びの積み重ねの先に、神の摂理は私たちへの呪いではなく、必ず祝福に至るのだということを、皆様に信じていただきたいと願います。

 

本日のタイトル) 「神の摂理は祝福に至る」

Ⅰ.「神に大いに祝福されたヨブ」

 まず、本日は、神様に大いに祝福されたヨブとその家族を聖書から見てまいりましょう。その書き出しからは、ヨブ記の独特な性質をうかがい知ることができます。

(ヨブ記1:1)「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」と。

 ①ヨブ記はイスラエルの歴史から独立している

このヨブ記の書き出しは、他の聖書の歴史の書き出しとは異なっていて、イスラエルの歴史の中ではその位置を占めることのない、独立したものであることを表わしています。ですから、イスラエルの歴史から独立した特異な書とされています。

また、ヨブたち家族が住んでいたウツの地とは、イスラエルではなく、エドムの東北、アラビヤ砂漠との境あたりとも言われています。

②神から祝福されていた敬虔なヨブとその家族

 そのような非イスラエル人でしたが、ヨブは神様から大いに祝福を受け、またヨブも敬虔な人生を送っていました。先ほどの聖書の個所でも。「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」と。

 この「潔白」とは完全の意味で、レビ記の律法の規定が与えられる前であったと考えられていますが、それは神様が人に求められる律法を完全に守り行うことを指しています。ですから、ヨブ記の主人公であるヨブは非イスラエル人でしたが、その宗教的な心は完全なイスラエル人であったと言えるのです。そして、ヨブは東方の地で一番の富豪でした。

 また、その息子たちも、今風に言えば「パリピ」、「パーティー大好きな人々」でした。4節を見ますと、「自分の日」にはいくつかの解釈がありますが、おおよそ、七人の息子が一週間の七日を、代わる代わる毎日、皆を招いた宴会を開いていたのです。まさに毎日が喜びの日であり、それが果てしなく続いたことを意味します。ヨブの家族の日々の状態には、祝福を示すための文学的誇張があるとされていますが。それによって敬虔なヨブという人物が、その信仰と生活および神の恵みの賜物において完全無欠と言うべき状態にありました。

 ③ヨブの敬虔な生き方は家族と共にあった

 ヨブの敬虔な生き方が現れているのが5節になります。

(ヨブ記1:5)「こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。」

 父親のヨブは、人は生活に不自由しない祝福の中にいても、心に罪を犯す可能性があることを知る人でした。これもレビ記の規定が与えられる前なので、祭司でもないヨブは族長時代のように家長としてささげました。

 

Ⅱ.「神の摂理は祝福に至る」

 しかし、そのようなヨブに試練が訪れるのです。しかもヨブには知る由もない、天上の世界の神様とサタンの間において、それが定められるのです。

 では神の摂理とは何でしょうか。摂理とは、神様が最も特別な方法で神の教会のために配慮し、万事をその益となるように処理されることを言います。すなわち次のようにです。

(-8:28)「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ということ。

 また、ジュネーブ信仰問答の中で摂理とは、神の御許しがない限り、悪魔や不義な人々がみ旨に反して何事もできないから、私たちは心を安んじ喜ぶことができると教えています。

 このヨブ記を学ぶ中で、私たちも病や人生のつまずき、問題にぶち当たることもあるかもしれません。しかし、イエス様も(マタイ10:29-31)「雀(すずめ)の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。…だから恐れることはありません」と言われるのです。

勧め) 「神の摂理は祝福に至る」

 

 本日はヨブ記のさわりだけのお話となりました。今後、その内容を深め、神様の摂理は必ず、祝福に至ることを学んでまいります。私たちもヨブと同じような気持ちになることがあるかもしれません。神様が信じられない。神様を信じても無駄だ。神様が憎い、嫌いだ。私は神様から愛されないんだとも思われる時があるかもしれません。しかし、(-8:28)「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」のです。だから、神様を信じることを止めないでください。また、自分のような人間は神様から愛されないと思い込まないでください。神様は罪びとのためにイエス様を十字架にかけて、あなたを救おうとされるのです。イエスを信じてください。