新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「神の愛を知り、人への愛に生きる」

葛西福音キリスト教会 聖書のお話し2021425()

1.テキスト「マタイの福音書182135節」

2.タイトル「神の愛を知り、人への愛に生きる」

3.中心聖句「コロサイ人への手紙3章12節」

「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」

4.本文「神の愛を知り、人への愛に生きる」

 )「偽りの愛」

 聖書には、父ダビデ王と息子のアブシャロムの愛の和解のシーンが描かれています。

「第二サムエル記14章33節」

「アブシャロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブシャロムに口づけした」

 

 アブシャロムは王の前でひれ伏して礼をし、そして父ダビデ王はそのアブシャロムに口づけをしたのです。なんと、麗しい父と子の愛の和解のシーンでしょうか。しかし、これは偽りの愛の和解で、赦し合いと呼べるものではありせんでした。なぜなら。

「第二サムエル記15章1節」

「その後、アブシャロムは自分のために戦車と馬、それに自分の前を走る者五十人を手に入れた」

 

 その後、父ダビデ王を倒すため、クーデターをするための戦車、馬、そして親衛隊を、息子のアブシャロムは用意しました。

 しかし、悲しいことですが、これはダビデとアブシャロムの間のことだけではないのです。これは私たちの人間関係の問題でもあるのです。聖書のあの時、あの場所では、私たちのこの時、この場所での話となるのです。本日も聖霊の助けをお借りして、信仰を持って聖書の語りかけに耳を澄ませましょう。

 

本日のテーマ) 「神の愛を知り、人への愛を知る」

Ⅰ.「愛を知らずして、人は愛せない。」

 聖書は神の愛を私たちが知る時、私たちは人を愛するのだと教えます。

「コロサイ人への手紙3章12節」

「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」

 

 これは本日の中心聖句ですが。まさに、ここに私たちが知らなければならない、人への愛の秘訣があるのです。それは「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」とされて初めて、私たちは「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」ることが可能なのです。人は愛されて愛を知り、そして人を愛することを知るのです。

 アブシャロムは父ダビデに選ばれた者、愛されている者と感じていたでしょうか。

「第二サムエル記1432節」

「…もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない。」

 

 アブシャロムは父ダビデに罪を認めて会いに行ったのではないのです。あくまで自分の無罪を主張し、それが認められないなら、私を殺せという思いを心に秘めていたのです。それはダビデがあくまでもアムノンを選び、アブシャロムへの愛を示さなかったからです。

 また、父ダビデにも問題がありました。それはアムノン、タマル、アブシャロムという兄弟間の罪の問題に父として愛と正義を行えませんでした。では、どうすればよいのでしょうか。

 

Ⅱ.「神の愛を知り、その愛に生きる」

 その答えが、本日の司会者に、お読みいただいたテキストにあるのです。

①「一万タラントの負債のある男が赦された。」

 一万タラントの負債とはいかほどの借金なのでしょうか。一タラントは六千デナリ。一デナリは当時の農作業や労働の一日分の労賃に相当します。したがって、一万タラントは、一般労働者の6千万日分で、今の日本の労働条件では、約20万年の労働に相当する途方もない巨額の金です。人生80年で死ぬまで60年間働くとしても、約33百世代にも渡ってただ働きで返済することになります。その借金が帳消しにされたのです。

 

②「この借金とは私たち人間の罪なのです。」

 ここで、イエスがたとえに用いられた1万タラントとは、私たち人間の持つ罪なのです。イエスは、人間ひとりひとりが負っている罪の負債の大きさ、またそれが自分の持っているものすべてをもってしても償いきれないものであることを示されたのです。

 そして、このたとえの中で、王の一方的なあわれみによって借金が免除されるとは、イエスの十字架による罪の赦しときよめのことなのです。この男のように、私たちにもいつ、清算の時が始まるか分かりません。今日、これからかもしれませんし、明日かもしれません。どうか、イエスをまだ信じておられない方は、今、信じる決断をしていただきたいと願います。また先に信じている私たちは、教会を挙げて祈り、コロナ禍ではありますが、伝道に努めようではありませんか。

 

③「神の赦しの愛に生きよと言われる」

 そして、イエスは言われました。

「マタイの福音書1835節」

「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 

本日のたとえにあるように、人間が神に対して犯した罪に比べれば、私たち人間同士がしたことは比較になりません。しかも、その神が私たちを赦してくださったのであれば、私たちも互いに赦し合わなければならないのです。兄弟を赦さない者は自分も赦しを受けることができない。これは新約聖書を貫く真理です。主の祈りの第五の祈りにもイエスの教えとして入れられています。すなわち、神の赦しと人の赦しは、常に表裏一体を成しています。この関係を抜きにして救いを語るなら、教会生活も家庭生活も、私たちはむなしく過ごすことになるのではないでしょうか。

 

勧め) 「神の愛を知り、人への愛を知る」

 本日は「神の愛を知り、人への愛を知る」でした。神の赦しと人の赦しは、常に表裏一体を成しているという聖書の真理を私たちは学びました。過去に罪深きダビデ王も神の赦しを受けました。もし、ダビデがその罪を深く考えていたなら、アムノンの罪を偏愛ゆえに放置しなかったはずですし、ダビデが自分の受けた罪の赦しを考えるならば、アブシャロムを本当に赦すことができたはずでした。あなたはどうですか。夫を赦せますか。妻を赦せますか。父と母を赦せますか。息子と娘を赦せますか。友人を赦せますか。