新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

本物と偽物

福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 2020年8月16日

1.タイトル「本物と偽物」

2.テキスト「コロサイ人への手紙2章8~23節

3.中心聖句「コロサイ人への手紙2章8節」

あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。

 

 序)偽札の見分け方

  ・「銀行での偽札を見分ける教育」

  ある牧師の説教の中で、銀行での偽札の見分け方教育の話がされました。それは何が偽札かを教えるのではなく、本物のお札に徹底的に見て、触れることだというのです。本物を知ることが偽札を見分ける教育で大切にされているという話でした。

  そして、正しい信仰、正しい人生の道を歩みたいなら、聖書が明らかに教えているイエス様を正しく信じることだと教えられました。そうすれば、誤った教えや道を

見抜くことができると。

 

テーマ) 「本物と偽物」

1.コロサイ教会を襲うに偽りの教師と教え

 本日の聖書個所、28節から23節は、コロサイ教会を襲う偽りのクリスチャンたちの教えとの戦いとキリストにある勝利、そして自由のある教会の姿が描かれています。

 その偽りの教えのとは何でしょうか。聖書にはこのように記されています。

 

(コロサイ人への手紙28)

「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません」

 

 このみ言葉は本日の中心聖句ですが、本日のお話しの問題提起でもあり、同時に問題解決でもあります。すなわち、偽りの教えとは「むなしい、だましごとの哲学」のことです。そして偽りの教えを打ち破る、真のキリスト教の教えであるものが「キリストによるもの」として救いです。

まず、ここでは偽りの教えについてみ言葉から考えてまいりましょう。パウロは先のみことばの真ん中にある「だれのとりこにもならぬよう、注意しなさい」ということばで、偽りの教えに対して絶えず注意し続けなさいと警告しています。

偽りの教えと言えば、最近は過去の異端の活動のように、あからさまにイエス様と既存の教会を否定し攻撃するだけではないのです。新しい異端活動は、いつの間にか、福音的な教会の正規会員としてもぐりこみ、自発的な聖書勉強会を装いながら、偽りの教えの仲間を増やしていくという組織もあるようです。いわゆる、鳥のカッコーの托卵(たくらん)と同じですね。福音的な教会の正しい福音を内部から壊し、代わりに偽りの福音をその教会で育てるのです。また、あわよくば、そこの牧師も取り込み、教会を乗っ取るのです。恐ろしいですね。

話を8節の「むなしい、だましごとの哲学」に戻しますが、これは高校や大学で教えられている哲学を指して言っているのではありません。それは哲学を装おうというか、自己啓発セミナーを装おうというか、それは真理を持たず、人を真に生かす力を持たないにもかかわらず、人間の目や耳を魅了する表現様式や展開をもって人々をとりこにする教えを指しています。一例としてキリスト教の異端ではないですが、過去に有名なバンドのボーカルがある種の自己啓発セミナーのとりこになった話は有名ですね。

 では、私たちはどうすればよいのでしょう。パウロは9節である人の名を教えます。

 

(コロサイ人への手紙29)

「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」

 

それはキリストであるイエス様です。最初の8節にも「キリストによるもの」であることとありました。そのお方には、全き聖と愛の方であり、全知全能で、この宇宙の創造者の神様の「ご性質が形をとって宿って」いると教えます。

すなわち、結局、信仰の正統・異端を決める試金石は、イエス様をどのように見ているかによるからです。ある神学者は、人が抱く信仰のすべては、「あなたがたは、わたしをだれだと言うか」(マタイ福音書1615)というイエス様ご自身が投げかけられた問いに対する答えによって決まると言います。

 

2.真実の救われるイエス様の教え

では、イエス様とはどのようなお方なのでしょうか。そして、どうすれば私たちはイエス様の救いを受けられるのでしょうか。

 

(1)イエスの十字架は私たちの罪の赦しのため

  コロサイ人への手紙は、パウロがイエス様を信じたコロサイ教会のクリスチャンを中心に教えを語っていると思われます。それで、まだイエス様を信じておられない方に配慮し、聖書の順番を少し入れ替えてご説明しますので、ご一緒に「真実の救われるイエス様の教え」を考えてみましょう。

 

(コロサイ人への手紙214)

「私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」

 

イエス様の十字架は、私たちが罪のゆえに積み重ねた莫大な負債の事実をつきつける債務証書を無効にされて、赦しを与えるためなのです。イエス様は、十字架でその私たちの債務のいっさいを負われることによって、それを帳消しにし、無効とされたのです。

 

(2)求められる救いの信仰、そして洗礼式

  ではいかにして、イエス様の十字架の恵みにあずかれるのでしょうか。聖書にはこのように記されています。

 

(コロサイ人への手紙212)

「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」

 

それは「キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰」を通して起こります。つまり、それはイエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神のわざと、神の力によるものであると信じたときにのみ起こるのです。そして教会で行われる洗礼式は、イエス様の復活を信じたことを公に宣言し、告白する教会の聖礼典なのです。

 

いかがでしょうか。まだ、イエス様を信じておられない方は、どうか!「真実の救われるイエス様の教え」を信じていただきたいと願います。そして、すでにイエス様を信じて教会生活を始めておられる方には、ただ単純にイエス様の十字架と復活を信じ続けていただきたいと願います。「真実の救われるイエス様の教え」はそれ以下でも、それ以上でもないのです。また、その教えに何かを付け加えたり、変更、また削除する人々には注意しましょう。たとえそれが福音的教会のクリスチャンや牧師であっても、私たちはかのルターのように聖書のみことばに立って、福音や信仰について考える人になってください。