旧約聖書から神様の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会


「神様は安全地帯」

1.テキスト「詩篇46111節」

2.タイトル「神様は安全地帯」

3.中心聖句「詩篇461節」

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」

4.本文「神様は安全地帯」

)ルター作曲の賛美曲

 先ほど、礼拝で賛美しました。「神はわがやぐら」この歌の作曲家のところにルターの名まえが記されています。ルター作曲の詩です。また、ルターが迫りくる患難の中で、この聖書個所から歌を生み出し、歌うことによって神様を信頼したとも伝えられています。

 2022年度の私たちの歩みにも試練や様々なことがあるかもしれません。しかし、「神様は安全地帯」なのだと。本日の中心聖句(詩篇461)「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」なのだとの神様への信頼をこの詩篇の信仰告白から教えられたいと願います。

 

本論)「神様は安全地帯」

Ⅰ.「私たちは恐れません」

 最初に、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」。とはなんと力強い信仰の告白でしょうか。これは詩人の個人的な信仰の告白を超えています。なぜなら、「神はわれらの避け所」とあり、信仰の共同体の告白なのです。すなわち、これは教会の信仰告白なのです。

 続く節では、地は変わり、山は海の真ん中に移り、あるいは、水がなりとどろき、泡立ち、山が震え動き、この世の終わりのような状況が描かれます。今、私たちも首都直下地震や、先日も火山の大噴火のニュースが流れていました。そのような災難がいついかなる時に私たちを襲うかもしれません。今、私たちは生きていますが、明日、私たちが生きているという確かな保証はありません。

 しかし、この詩人は「我らは恐れない」と告白しているのです。それはなぜか。彼らは神様という安全地帯に身を隠すことができるからです。神様は私たちが困難な時に、見捨てず、共にいてくださり、いつでも助けて下さるのです。

ですからもし、私たちの心が騒いていたとしても私たちは恐れません。私たちには避難場所であり、安全地帯の神様がおられるからです。

 

Ⅱ.「わが内なる神の国は揺るがない」

 そして次に、神様の安全地帯の様子が絵画的に描かれています。それは現実のエルサレムではなく、新しい神の都に流れる川の様子です。エゼキエル書では、新しい神殿のもとから流れ出た川は、生けるものすべてを生かす川と描かれています。また黙示録では、新天新地を流れる豊かな実を結ばせる川として描かれています。この川とは聖霊を象徴していて、その意味は、私たちのまことの平安は、人の権力や権威、暴力や軍隊、知恵や策略によって保たれないのです。聖霊なる神様のご臨在によって、私たちは揺れ動く世界、確かなものなど存在しない世界にいたとしても、心の平安を保つことができるのです。そのことで神様のみわざがなされることを信頼して生きていくことができるのです。

 ですから、神様が今も、生きて働いておられるという臨在への信仰、聖霊なる神への信仰が大切なのです。そこに神様の安全地帯が備えられるのです。

詩人も5節で、神の都がゆるぐことがないのは、その城壁や防御の設備の働きではなく、神様のご臨在の働きによると告白します。

ですから、その神様のご臨在への信仰がなくなると、神の都でも、教会も、ただの形だけになります。神様の安全地帯を失うのです。

 

Ⅲ.「終末における平和の主」

 神様のご臨在による、この安全地帯はこの世の終末の中でも確かに働くのです。この世界の終末にはひどい争いがあると聖書は教えます。しかしその時、神様は私たちの敵である悪魔とそれに従う敵に対して、徹底的な敗北、そして荒廃をもたらされます。

8節「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた」と。

そしてすべての人々が、イスラエルの神こそまことの神様であることを知るのです。これがこの世の終末における神様の審判なのです。

そして、宣言されます。10節「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」と。

 それであるので、私たちにとって神様は安全地帯なのです。

11節「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」となられるのです。

 

勧め)「神様は安全地帯」

 どうか皆様、この世で私たちの波立つ心に、神様の「静まれ」と命じられる声を聞いて欲しいのです。私たちが目の前のことにとらわれるすぎるのではなく、変わることのない神の国を見続けて欲しいのです。神様は私たちの砦だと信じて欲しいのです。なぜなら、神様は私たちの安全地帯だからです。