新約聖書から神様の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「イエスの裁判」

1.テキスト「ルカ23:13-25

2.タイトル「イエスの裁判」

3.中心聖句「Ⅱコリント5:21

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

4.本文「イエスの裁判」

 )「ウクライナの悲劇」

 イエスの裁判については、ルカ22:63-23:25に記されています。この個所から神学者は、二つのことを私たちに向けて問いかけていました。一つは、『ユダヤ教()の訴えは、(キリスト)教会の問題を強く反映している』こと。またもう一つは『読者は必ず自分自身を(このテキストの登場人物の中に)見出さずにはいないであろう』ことです。もちろん、罪の問題、救いの十字架の必要性など、これはすべての私たち人間の問題です。しかし、それ以上に、このテキストで描かれる醜い人間の業、自我、自己中心など罪の問題が、救い主である神の御子イエスを十字架にかけているのは、すなわち私たち人間なのだということです。このテキストを読んでいる私たちに、神が、あなたもそこにいたのだと。神は語りかけているということです。

 それはニュースで流されるウクライナの悲劇も、国内で母親から虐待を受けて死ななければならなかった幼いいのちも、それはどこか遠くの特別な悪人の問題だと言っている限り、それは救いへとはつながらないのと同じです。まず、私たちは知らなければなりません。イエスの平和は、世界のどこかで、誰かから、いつの間にか、行われているのではないのです。今、ここで、私たちのうちに生きるイエスから始まるのです(説教の本論に入る前に、ウクライナの人々、そして虐待やいのちの危機にある人々のために黙とうをささげたいと思います)

 

本論)「イエスの裁判」

 そして本日は、ルカ23:13-25をテキストに、総督ピラトの判決から見えてくる罪の力とイエスの身代わりの十字架、そして解放された罪びとバラバについて、私たちは聖書の語りかけに耳を傾けたいと願います。

 

Ⅰ.「圧倒的な罪の力」

 この個所では、ローマ総督ピラトによる裁判の様子が描かれています。ピラトは、イエスに何の罪も見出せないと告げます。しかし、人々は死刑囚のバラバを解放して、イエスを十字架につけるように叫びます。その様子を聖書は。「彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った」(ルカ23:23)と。どこかの政治家が、罪とは『法』と『証拠』によって決まると言っていましたが。イエスの裁判は『法』と『証拠』ではなく、法外であるはずの『声』が死刑を宣告します。その結果、バラバは無罪放免となります。このバラバについて聖書は。「バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者である」(ルカ23:19)という人物です。死刑を宣告されてもおかしくない人物です。そして、そのバラバの姿に、私たちの姿が重なるのではないでしょうか。

 聖書は「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)こと、また「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)とはっきりと告げています。すなわち、私たちは自分の罪のために神の前にさばかれるなら、死のほかに答えはないのです。先週のペテロのお話しと同じように、人間は罪の前に弱いものなのです。あのペテロですら、罪の圧倒的な力の前にイエスを否定せざるを得なかったのです。

 

Ⅱ.「身代わりとなられたイエス」

 バラバの名まえについて新改訳聖書と口語訳聖書では、「バラバ」(マタイ27:17)となっていますが、新共同訳聖書、新改訳2017では、「バラバ・イエス」となっています。今、私たちは「イエス」というと、すぐに救い主イエスと受け取りがちですが、当時「イエス」というと、それはありふれた名前だったようです。日本で言えば、「佐藤」「田中」でしょうか。とにかく、バラバにすれば、助かる希望がまったくなかったのに、自分と同じイエスという名の男が突然あらわれ、自分に代わって死刑になってくれたのです。バラバは罪を償うこともなく、心を入れ替えたわけでもなく釈放されました。ここに一つの救いの本質を私たちは見るのではないでしょうか。人が救われるのは、その行いによるのではないことを。神の救いとは、一方的な神の恵みであることを。

 私たちは、ただイエスの十字架によって、罪が赦されたのです。私たちは行いによってではなく、イエスの身代わりの十字架の恵みによって救われたのです。

 

Ⅲ.「釈放された罪びとバラバ」

 イエスのいのちと引き換えに無罪放免とされたバラバのその後については、聖書は何も語ってはいません。神の御子イエスが自分の罪の身代わりとなったという恵みを忘れて、また悪事を起こせば、次は刑罰を免れることはできないでしょう。

 では、イエスの身代わりの十字架によって、罪赦された私たちはどのように生きればよいのでしょうか。聖書は言います。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペソ2:10)

 私たちは罪の力と死に対して無力でありました。それがバラバのように、恵みによって救われたのです。まことに、「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12)と聖書が言うとおりなのです。どうか、まだイエスの十字架を信じておられない方は信じて救いを受け取ってください。また、私たちクリスチャンは救われていない人々のために伝道し、祈り続けましょう。

 

勧め)「イエスの裁判」

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

 イエスは、私たちの負いきれない罪の重荷を十字架において、私たちの身代わりとなり、贖ってくださいました。救われた私たちは、「神の作品」「神の義」として生きたいと願います。そして、まだイエスの十字架を信じておられない人々のために、伝道し祈り続けましょう。また、世界中の人々が神の愛を実感できるように祈りましょう。