新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「父なる神の承認の声」

葛西福音キリスト教会説教2020104

1.テキスト「マタイの福音書3章13節から17節」

2.タイトル「父なる神の承認の声」

3.中心聖句マタイの福音書3章17節」

天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」

4.本文「父なる神の承認の声」

 )愛される子、よい子になる

 「愛される子」、「良い子になる」、これらのことばは一見、真面目な子どもが持つ正常な思いに聞こえますが。これが親の愛に不足を感じている子どもの、誰かにほめられたい、愛されたい、認められたいという心の声となると危険です。それはどんなものも親の愛の代わりになるものはないからです。そして、大人になり依存症を発症する原因の一つとなり得ると言われています。そのような見捨てられた人のことが、聖書の中にも記されています。それは十字架の上でのイエスの叫びです。

 

(マタイの福音書2746)

「イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

 

  本日は、聖書から、どんな人も決して見捨てられないお方がおられることを共に学びましょう。

 

タイトル) 「父なる神の承認の声」

1.拒絶感、子どもの親の受容への飢え乾き

  もし、私たちの心のうちに、親からの根源的な拒絶感があるとき、このような問いを心の中でするのではないでしょうか。「私は、生まれてくるべきではなかったか?」・・・。そして愛される子どもになろう。褒められる子どもになろうと努力するのではないでしょうか。

  それは、子どもとして、親に受け入れられていると確認したい思い、また親に望まれて生まれてきたと信じたい思い、そして自分という存在が喜ばれて受け入れられていると信じたい思いから生じているのではないでしょうか。ある人の著述に、それは父親の期待に応えることで、受け入れられているという、受容の感覚の不足であり、飢え渇きだと教えられていました。ちなみに、母親の愛とは、ありのままの自分が母に受け入れられているという受容の感覚が子どもに与えられるとのことでした。

 

2.福音が教える神の愛(神の受容)

  ペテロはキリストの十字架を信じる者に与えられる神の愛、そしてその受容をこのように教えています。

 

(第一ペテロの手紙2章25節)

「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」

 

  聖書が教える神の愛、神の受容とは、罪ある人、そして神との断絶、神と無関係に生きて来た人がイエス・キリストの十字架の救いによって父なる神と和解し、「愛される子」として受け入れられることにあるのです。それが先のみことば「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(第一ペテロの手紙2章25節)です。神の愛は、信じる私たちを愛される子として受け入れてくださるのです。それがキリストの十字架の救いの目的です。

 

3.父なる神の承認の声

  さて、本日のテキスト箇所ですが、この個所は、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時のお話です。ヨハネの福音書3章16節、17節の箇所をお読みいたします。

 

(マタイの福音書3章16、17節)

「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」。

 

その時、17節にありますように「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と父なる神の声が響き渡りました。ある牧師は、地上での歩みにおいてイエスが「十字架の死」という父なる神からの「究極の拒絶」に向かって生きることを根底で支えたのは、この父なる神の声、父なる神の喜びの声であったと言います。しかもその声は、ひそかにイエスの心にささやかれているのではなく、天からの響き渡る声であったと思われます。

その声を例えるなら、それは子どもが出場しているスポーツの試合で、応援している父親が自分の子どもが活躍した場面で、「あれはわたしの子どもです」と誇らしげに周りの人に言うようなものだと思います。男の子にとって父親の期待に応えることは、父からの承認を受けることであり、また父の愛とは承認の意味合いが強いと言われています。

ですから、父からの承認が得られないで育った場合、大人になってから社会的な成功をしても、父からの承認を受けられなかった拒絶感を払しょくするのは難しい事だとされています。たとえ名誉や富を得、社会的に成功者と認知された人でも、父親からの拒絶感に苦しむ例は多いそうです。

イエスの心にはいつも「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」との父なる神の承認の声が響いていたのではないでしょうか。その承認の声は、十字架に向かうイエスを拒絶する群衆の声よりも強く、大きかったに違いないと思います。

そして父なる神から子なる神イエスへの承認の声は、私たちにも与えられるのです。それは聖書にこのように約束されているからです。

 

(第一ペテロの手紙2章25節)

「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」

 

ですから、イエスの十字架を信じてください。これまでどのような人生、罪深い人生を歩んだ方であったとしても、信じる者には「羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」と約束されているのですから、大丈夫なのです。

そして、心から喜びましょう。これまで、親から拒絶され、親の愛を求め、その心の飢え乾きに苦しむことがあったとしても、私たちには、イエスに向けられた父なる神の承認の声を自分への声として聴くことが許されるのです。それはイエスの十字架を信じる者にはイエスがその人のうちに住んでくださるからです。

ですから、どうか、イエスを信じてください。イエスの十字架を自らの罪のためだと信じてください。

 

そうするなら、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」、このことばを自分に与えられたことばとして聴くことができます。あなたは神から望まれて生まれ、そして生きてほしいと望まれている神の子どもとして生きることができるのですから。