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福音伝道教団

葛西福音キリスト教会 説教

葛西福音キリスト教会2020年5月24日(日曜日)メッセージ


タイトル

人生ホップ、ステップ、ジャンプ

葛西福音キリスト教会 説教 2020年5月24日(日曜日)①

葛西福音キリスト教会 説教 2020年5月24日(日曜日)②


タイトル

人生ホップ、ステップ、ジャンプ

「ヨハネの福音書1317節」

「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、

                       それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」

 

 「ホップ、ステップ、ジャンプ」

 日本語で「ホップ、ステップ、ジャンプ」というと、何か新しいことに取り組むときに、段階を踏んで少しずつゴールを目指して進んで行きましょう、みたいな感じですね。

 ですから、ホップもステップもジャンプも。それぞれがジャンプの大きさを表していて、小ジャンプ、中ジャンプ、大ジャンプという風に理解されている方も多いかなと思います。

 

 しかし、英語ではニュアンスというか意味合いが異なるようです。人の場合で考えますと。

 「ホップ」は、片足で「ケンケン」するような感じです。子供の遊具で「ホッピング・マシン」というものがありますよね。あのような感じです。遠くには飛べない感じです。

 

 そして、「ステップ」はジャンプではなく、足を「一歩踏み出す」動作です。それで歩くという動作を「ステップ&ステップ」と言います。ステップの連続が歩くということです。

また、ステップ・バイ・ステップとは「一歩一歩」着実に歩こうという心の励ましのことばでもありますね。日本では、浜崎あゆみさんなど、世界中で多くの歌の題名や歌詞にもなっています。

 

 そして、「ジャンプ」。これは、両足を地面に押し付けて空中に飛び上がることですね。

 ですから、何か力などを段階的に徐々に強めて、小、中、大ジャンプというのではないようです。

 

 イエス様を信じる信仰というものも「ホップ、ステップ、ジャンプ」で言い表すと分かりやすいかなと思います。

 

「人生 ホップ、ステップ、ジャンプ」

1.「ホップ、イエス様と出会う」(自分の罪と自分の弱さを知る)

 まず、「ホップ」です。 このことばでイエス様との出会いやきっかけを表すとよいかなと思います。片足でぴょんぴょんと一生懸命に飛んでも、川を跳び越すのは難しいでしょう。小石なら飛び越えられるでしょうが。人生で何か飛び越える必要はあるが、その力のない自分、志はあるがいつも同じ位置で飛び続けている自分、自分の不足や限界を知る感じです。

それは、私たちが教会に行こうかなと思うとき。聖書を読もうかなと思うとき。牧師やクリスチャンに話を聞いてもらう、祈ってもらうときというのは自分に不安や弱さを持っているときではないでしょうか。

 しかし、私はそれでよいと思います。そのようなときこそ、教会にご連絡ください。近くの教会にお越しください。そして、聖書を開いて神様の愛のことばに耳を澄ませてください。

それはイエス様というお方について聖書が、このように紹介しているからです。

 

(マタイの福音書1220節)

「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、」

 

これは旧約聖書の中の、イザヤ書423節に、約束されたイエス様というお方の優しいお心を紹介していることばです。葦(あし)というのは丈夫な棒のような草ですが、痛んで使い物にならないと普通は折られて捨てられます。

しかし、イエス様はお優しいお方で、決して捨てないお方です。また燈心とは、ランプで油などを吸って光る部分です。その燈心がくすぶっていたのでは、煙(けむ)くて目や鼻を痛めます。こちらも役立たずだと消して捨てられません。

 

 先に「ホップ」の話をしましたが、片足のジャンプでは、川を飛び越えたりできません。思いや志があってもやり遂げる力がないのです。そのような思い通りにいかない人生や自分自身に不満や不安、また自分の罪の問題を解決できない人をイエス様はお招きになられ、そして癒され、その人を幸いにする新しい人生に導かれるお方なのです。

 

2.「ステップ、イエス様の十字架と復活を信じる」(十字架の贖いに、全て委ねる)

 では、聖書や教会、牧師は皆様に何を示すのでしょうか。それはイエス様に「ステップ」をさせることを勧めます。「ステップ」がジャンプではなく、足を「一歩踏み出す」動作であるように、教会ではイエス様のおことばに自分の考えや経験を越えて「一歩踏み出す」こと、聖書のことばを通してイエス様を信じることを勧めているのです。そうすることにより、私たちは新しく生きることができるからです。

 なぜか。それは聖書がイエス様の十字架を信じる者は罪を赦されると教えるからです。

 

(Ⅰペテロの手紙 224節)

「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 

 私たちの誤りの多くは「罪」の影響から生じる思いや行動から生じているからです。

 ですから、皆様には、せひ、イエス様を信じていただきたいと願います。 聖書は、イエス様の十字架を信じる信仰の告白について、次のように教えています。

 

ローマ 人への手紙10章9節)

「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」

 

 しかし、このような他力で救われるなどと、深く反省すれば、何度かチャレンジすれば、いつかは自分は自分を救えるとお考えになられる方もおられるかもしれません。聖書にもイエス様のお弟子でありながら、そのような人物がいました。それはペテロというお弟子さんです。そのペテロとイエス様のやり取りが聖書にこのようにあります。

 

(ヨハネの福音書13章)

4節「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」

  5節「それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」

6節「こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。『主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。』

 

 この個所は聖書の中でも有名なところです。イエス様の十字架の罪の赦しが、象徴的に教えられている個所とされています。旧約聖書中でイエス様は、「自分のいのちを死に明け渡した」と預言されていますが、その預言の通りに、私たちは十字架にかけられた「キリストの打ち傷のゆえに、・・・、いやされたのです」。

今読みました聖書には、イエス様はわざわざ食事を中断され、「夕食の席から立ちあがって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」。その当時の文化では、イエス様の身なりと行為は奴隷のような身なりであり、下の者が行う行為でした。

 それで、ペテロはイエス様に洗ってもらう必要がないと、自分でなんとかしますと言ったのです。聖書にこの話が記されているのは、多くの人がこのような誤った考えを持っているからではないかと思います。

 しかし、私たちはイエス様に「ステップ」すること、イエス様に「一歩踏み出す」ことで、確実に、次にジャンプすることができるのです。

 

3.「ジャンプ、新しい人生に飛び込みましょう」

  たとえ、自分のこれまでの人生が失敗の繰り返し、反省の繰り返しであり、そのマイナスの無限ループのように感じられる人生であったとしても、新しい人生、生き方に飛び出せるのです。

ただ、私たちのするべきことは、イエス様に「ステップ」するのです。イエス様のことばを信じて「一歩踏み出す」のです。そうして初めて神様の恵みと祝福でジャンプすることができるのです。

 もし、皆様が聖書のことばを信じるならジャンプできるのです。皆様は幸いな人生、後悔のない人生に飛び込めるのです。

 聖書はこのように約束しています。

 

(ヨハネの福音書1317節)

「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」

 

ですから、どうか、皆様の人生に神様と出会い、喜びの「ポップ・ステップ・ジャンプ」が訪れ祝福されますように切にお願います。

もし、皆様が聖書に触れる時、教会を訪れる時、身近なクリスチャンに相談される時、イエス様にステップして、信じていただくならば、必ず、新しい人生に、希望の毎日に飛び込むことができるのです。

 

祈りましょう。 主よ、あなたの御名を信じて祈ります。

    どうか、コロナウイルスから世界が救われますように。

    今困難な中にいる、私たちの健康と暮らしが守られますように。

    イエス様を信じて、新しい生き方、祝福された人生に「ジャンプ」できますように

 

 イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン