葛西福音キリスト教会 2021年3月28日(日)聖書のお話し
1.テキスト「第二サムエル記14章21~28節」
2.タイトル「親の愛は子どもに必要」
3.中心聖句「ルカの福音章15章20節」
「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、
かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」
4.本文「親の愛は子どもに必要」
最近、NHKで「愛を科学で実証した科学者」という番組がありました。母と子の間にある無償の愛、恋人たちの愛、仲間、友人たちとの愛。この愛はいかにして生まれ、育まれるのか。この問いを、科学実験で明らかにしようとした科学者がいました。それはアメリカの心理学者「ハリー・ハーロウ」です。彼は情熱をかけて、「母親に対する子どもの愛」を探りました。そのため、人間に近い霊長類のサルを使って動物実験を繰り返し、親子の愛情のメカニズムを世界で初めて科学的に実証しました。彼が実験で得たもの、それは子どもと親とのスキンシップは、親子の愛が育まれ、確認され、子どもの心が穏やかになるというものでした。
本日のテーマは親子の愛についてです。では、聖書の語りかけに耳を傾けてまいりましょう。そしてその聖書の語りかけの中でイエスと出会い、イエスを信じ、イエスに従っていただきたいと願います。
1.「放蕩息子への父の愛」
本日の中心聖句は代表的な親の愛が現わされています。
「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、
かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」
これは、聖書にあるイエスのたとえ話の中でも「放蕩息子」として有名な箇所のみ言葉です。父親が放蕩のすえに舞い戻った息子のもとへ、全速力で駆け寄る姿が描かれています。この時、町の人々は、社会のルールや常識を軽んじ、父親の顔に泥を塗り、異邦人の地へと旅立った放蕩息子の帰りを歓迎しなかったでしょう。父親にとってもある意味、息子が家に戻ることは父親の恥であり、父親を侮辱し、普通に考えるならば、当時のルールを破って出て行った息子を迎える義理もなかったでしよう。しかし、その息子のもとへ父親は走り寄り、近寄って抱きしめたのです。父親はこの息子のおかげで財産だけでなく、その町での社会的な立場も失っても、息子のもとへ駆け寄ったのです。父親がこの喪失を喜んで支払ったことで、父は息子を取り戻せたのです。その父の犠牲の愛により、息子は父のもとへ帰ることができたのです。
どんな罪人にも帰ることができる場所があるのです。聖書はすべての罪人に居場所を用意してくれるのです。その入り口がイエスの十字架なのです。罪を悔いイエスの十字架を信じる者は、新しい人生、新しい生き方、新しい人として生きることができるのです。
では、ダビデは罪を犯した息子アブシャロムを息子として取り戻せたのでしょうか。
①「罪びとアブシャロムの三年間の逃亡」
アブシャロムは長男アムノンを殺害後、ゲシェルに逃亡し、三年間の逃亡生活を続けました。しかし、その間、父ダビデがアブシャロムに会いに出かけることは一度もありませんでした。これはダビデがアブシャロムの罪を放置したことを意味します。三年という月日が経つ間、アブシャロムは沈黙する父ダビデの沈黙を、自分の存在に対する無関心と受け止めたのではないでしょうか。
(ヘブル人への手紙12章8節)
「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、
私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」
アブシャロムはダビデの沈黙をどのように受け止めたのでしょうか。最初は、父ダビデの怒りを恐れて逃げ出しましたが、父は追いかけて来ませんでした。アブシャロムは深い罪悪感の中、一度も会おうとしない父に対して、深く絶望していたのではないでしょうか。
このような話があります。少年非行で補導された少年少女の多くが、親から「叱られなかったこと」で拒絶感や疎外感が深まったと証言しているそうです。親から贅沢な暮らしを提供され、何不自由のない豊かさを享受(きょうじゅ)していながら、本気で叱ってもらえないことに深い寂しさを覚えていると。怒鳴られることはあっても、自分の罪を犯す弱い心に真剣に向き合ってくれない寂しさがあると。
そのような、行き詰っていたダビデとアブシャロムの親子関係を、前に進めたのはヨアブでした。そして、息子アブシャロムは父ダビデの幾ばくかの許しを得て、エルサレムに帰ってきました。
『王はヨアブに言った。「よろしい。その願いを聞き入れた。行って、若者アブシャロムを連れ戻しなさい。」。そこでヨアブはすぐゲシュルに出かけて行き、アブシャロムをエルサレムに連れて来た。王は言った。「あれは自分の家に引きこもっていなければならない。私の顔を見ることはならぬ。」それでアブシャロムは家に引きこもり、王の顔を見なかった。』
彼は先週のお話しにあった将軍ヨアブの知恵のおかげで、王都エルサレムに帰ることができました。しかし、父ダビデから裁きとして、自宅に謹慎することを命じられます。しかも二年間も。
「アブシャロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王には一度も会わなかった。」
この時、アブシャロムが一番求めていたのは、父ダビデのことばと行動だったのではないでしょうか。あの放蕩息子に走り寄ったのは父親の側からでした。息子の謝罪の前でした。これは罪の謝罪がどうでも良いということではなく、子どもの更生のためには、親の愛の中で裁きを受け、そして罰を受けることの大切さを示すモデルなのです。古い映画ですが、俳優の高倉健主演の「黄色いハンカチ」を思い出します。映画の中で、誰かが自分を待っていてくれる。また刑を終えた自分には、居場所があるという希望が主人公の支えとなっていました。罪びとアブシャロムも父ダビデとの関係が一方的に断絶したままでは、正しく罪と向き合い、更生の道を歩む心を養えないのではないでしょうか。
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