旧約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会 説教


タイトル

神様の祝福を受ける

1.本日の聖書個所「民数紀211618節」                               (新改訳聖書第三版使用)

(16節)

 彼らはそこからベエルに向かった。それは主がモーセに、「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える」と言われた井戸である。 

(17節)

 そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。「わきいでよ。井戸ー・ーこのために歌えー・-笏をもって、杖をもって、

(18節)

笏をもって、杖をもって、つかさたちがうがち、民の尊き者たちが掘ったその井戸に。」

 

 

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 メッセージ「神様の祝福を受ける」

 

わたしたちはどうしたら、神様の祝福を受けることができるのでしょうか。

 

それはつまり、どのように聖書のことばに聴くことができているのかということに尽きるのではないでしょうか。

 

神様と私たちの関係を聖書の中では親子の関係で教えている箇所があります。私自身も経験があるのですが、親から何か教えでも、お叱りでも、行動を命じられたりしたとき、そのことに対する返事や親の言葉を聞く態度で、親子げんかになったことが多々ありました。皆さんはどうでしょうか。これは、夫婦の間でも、会社でも当てはまるかと思いませんか。

 

本日は、その一つの答えとして、この聖書の箇所から教えられたいと願います。水のない荒野を旅するモーセたちが、どのように渇きをいやす水を与えられたかを学ぶ中で、私たちは、どうしたら神様の祝福を受けることができるのかを、知ることができるからです。きっと私たちは、その学びの中で、どのように神様の約束のお言葉、聖書と向き合うべきかを、また周囲の人々に向き合うべきかを教えられることになればと願っています。

 

  1

彼らはなぜ、水のない荒野で水を得ることができたのでしょうか。

 

1-1

それは神様の約束のお言葉を信じ、そして従ったからでした。

  やはり、神様の祝福を受けるための第一のことは、神様の約束のお言葉、聖書のみ言葉を信じ、そして従うことですね。

16節には『主がモーセに、「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える」と言われた井戸である。』とありますが、ここには大切な二つのことが教えられています。それは従順に「民を集めること」と「水を与え」られる神様を信じたことでした。

 

まず、最初は、神様の約束のお言葉への従順に従うということです。16節の「民を集めよ」とあり、モーセとともに荒野を旅する人々が集まることが求められました。彼らは水のない荒野で渇きを感じた時、神が水を約束された地、ベエル(井戸の意味)に集まったのです。

 

すなわち、神様を信じ従う人々が、神様の約束のお言葉のもとに、まず集まるように求められたのです。そこで、神様の祝福を受けたのです。

 

聖書もこのように教えます。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル人への手紙1025)と集まることの大切さを勧めています。

 

今の私たちにとってこれは、もちろん、教会や家庭での礼拝や集会ということでしょう。

しかし、コロナ危機で、人との接触を避けることが求められる今、しばらくの間は、忍耐強い信仰をもっての個々の礼拝が求められています。早く、世界がコロナの危機から救われるようにとお祈り申し上げます。

 

  12

次は、神様の「与える」との約束のお言葉を信じる大切さです。

 

 でも、私は信仰がないとか、小さいとか、信仰が続かないからと、最初からあきらめられる方もおられるかとも思われますが。

 

イエス様は「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ の福音書1720)と大胆にお約束されました。

これは、どんなに人間の信仰が小さくても、持っていれば、それは神様の力を受けるので、行く手をふさぐ山のように大きな問題をも解決できるとのお約束なのです。

 

すなわち、私たち人間の信仰の量や質が問題ではなく、どんな小さな信仰でも持っているなら、その信仰をもつあなたに神様は祝福の力を与えるとお約束してくださるお方なのです。

ですから、山が動くのです。

 

「神様の祝福を受ける」には神様の約束のお言葉への信仰と従順が大切だと学びました。

 

  2

次に、約束のお言葉を、信仰の祈りと謙遜な従順へと深めていくことが求められていることを知ってほしいと願います。

 

  21

まずは信仰を祈りへと導くことです。

信仰をもって約束のお言葉を聴いたならば、必ず、それは神様への訴えに、切なる祈りへと深められるはずだということです。

 

17節には「そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。『わきいでよ。井戸・・・このために歌え』」とありますが、これは人々の水を求めての神様への祈りです。神様の約束のお言葉が人に語られる時、人はすべての祝福の源である神様に祈ることが求められるのです。

 

  22

 次は、謙遜な態度での従順へと深めることが求められます。

 聖書にはこのようにあります。

18節、「笏をもって、杖をもって、つかさたちがうがち、民の尊き者たちが掘ったその井戸に」と。

 

 ここで、言われている「笏」、「杖」とは指導者たちの権威を示すアイテムです。民の尊き者たちとは、民の指導者たちを意味します。

 

 すなわち、指導者たちが自ら(うがち)穴を掘ったのです。彼らは腕組をしたまま、「さあ、みなさん、一生懸命に穴を掘りなさい。」と命じることもできたでしょう。しかし、指導者たちは自らを低くし(謙遜に)、身をもって従ったと聖書は記しているのです。

 

私たちの社会に置き換えると、名誉ある人々、肩書のある人々が、へりくだり、ひざまずいて掘っているということです。

 

 

祈りましょう。「神様の祝福を受ける」ために。

 

①私たちも「神様の祝福を受ける」ために、神様のことばを信じ従います。そしてさらにそれを深めて、信仰が祈りに、従順に謙遜さが加わりますように、神様、私たち一人一人をあなたの祝福のみわざをもって変えてくださいますように。

 

②コロナウイルスの脅威から世界が救われますように。