旧約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「真実の怒りと愛」

葛西福音キリスト教会説教20201122

1.テキスト「第二サムエル記13章20~24節」

2.タイトル「真実の怒りと愛」

3.中心聖句「箴言312節」

「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」

4.本文「真実の怒りと愛」

 序)「親に目なし」

ダビデについて考える中で、日本のことわざ、「親に目なし」ということばに出会いました。その意味は、親が、子どものことについて判断する場合、正しく見ることができないというものです。子育ては難しいものですね。子どものことをかわいいと思わない親はいないでしょうから、難しいですね。ダビデは子どもを正しく怒ることができませんでした。私たちも、聖書から真実の怒りと愛について学ぶ必要があるのではないでしょうか。では、キリストの十字架に示された神の愛から見てまいりましょう。

 

テーマ) 「真実の怒りと愛」

1.「キリストの十字架に示された神の愛とは」

ゴルゴダの丘に立てられたイエス・キリストの十字架の死に込められた神の愛が示したのは、御子イエスの身代わりの犠牲だけではないのです。それは父なる神の正義の怒りが御子イエスに下されたしるしでもあるのです。神の御子イエス・キリストは罪がないにもかかわらず、私たちすべての罪人の罪を背負い、身代わりとなられ、父なる神の正しい裁きを一身に引き受けてくださったのです。

ですから、あの十字架の上で、御子イエスの愛の犠牲、そして父なる神の正しい裁きという神の愛が示されたのです。その十字架上での御子イエスの苦渋の叫びが聖書にはこのように記されています。

 

(マルコの福音書15章34節)

『イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』

 

「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」。これは詩篇221節の聖書のアラム語訳です。御子イエスは十字架上で、おそらくヘブル語で叫ばれたと考えられていますが。そのためヘブル語では、「エロイ」は「エリ」となるので、預言者エリヤを呼んでいるとも混同されていたと聖書には記されています。この叫びが意味するのは、イエスが確かに、人に見捨てられただけでなく、十字架上の苦難によって、神にも見捨てられたという、全くの孤独を感じられたということです。

  父なる神は、十字架の上でのイエスの悲痛な叫び声に沈黙されました。それは罪に決して妥協しない神の正義のゆえです。父なる神は、私たちの罪の身代わりとなられたイエスを断罪されました。そこには不正を喜ばない神の愛の父性的側面が示されています。先週もお話ししましたが、神は罪を憎まれるお方ですが、罪ある者に深いあわれみの愛をかけられるお方です。それで父なる神の愛が示された十字架の上で、神の赦しの愛も示されました。その愛は、罪びとをありのままであわれみ、受け入れる赦しの愛、神の愛の母性的側面も示されています。そのように十字架の上で示された神の愛は、父性的な愛と母性的な愛の完全な愛なのです。その神の完全な愛を聖書はこのように記しています。

 

(詩篇8510)「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。」

 

  しかし、これは父なる神が父性的な愛を、御子イエスが母性的な愛を持つというのではなく、イエスの愛は父性的な側面と母性的な側面がある、全き愛です。

  十字架を通して見えるのは、父なる神が「正しい裁き」を下すため、ひとり子イエスが殺されるという喪失の悲しみを担われたことでした。クリスチャンは十字架に、イエスの犠牲だけを見るのではなく、ひとり子イエスを見捨てられる父なる神の悲しみにも目を留めるべきではないでしょうか。神の怒りである「正しい裁き」には、父なる神の犠牲があるのです。

では、私たちの怒りはどうでしょうか。私たちの正義には愛はあるのでしょうか。私たちの正義には罪びとのために犠牲を伴う覚悟はあるのでしょうか。もし、無いとすれば、あのパリサイ人の義と私たちの正義や怒りは同じではないでしょうか。

 

2.「ダビデの正義と怒り」

  父親のダビデ王が正しい裁きを下すとき、多大な期待をかけてきた長男のアムノンを王位後継者から外さざるを得ませんでした。それは妹を辱めるような男を、イスラエルの民が尊敬し、従うことはできないからです。

  しかし、聖書にはダビデ王が事件を知って「激しく怒った」とあります。

 

(第二サムエル記1321)「ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った。」

 

  長男のアムノンが妹タマルを辱めたことを知らされた父ダビデは激しく怒りました。このダビデの怒りはどのような怒りだったのでしょう。神学者はこの21節には次のことばを付け加えるとべきだといっています。「しかし、彼はその子アムノンのきげんを損ねなかった。彼が長子なので愛していたからである」と。ダビデはアムノンの不祥事を起こしたことに腹を立てていたのです。自分のメンツがつぶされたと。しかし、妹への卑劣な行為そのものにどれだけ腹を立てていたのでしょうか。聖書にはアムノンの罪を厳粛に取り扱うこと、罰することは記されていません。その王位継承権は守られています。かつて、ダビデが部下ウリヤの妻バテ・シェバとの関係を隠匿したのと同じようにしたのです。

  ダビデは父として正しい裁きを下す責任を放棄しました。それはすなわち、アムノンを真実に愛そうとはしなかったのです。ダビデは子どもの罪と真正面から向き合う痛みから逃げたのです。それはダビデがアムノンに自分と同じ罪深さが宿っている現実を直視できないからです。自分の罪が繰り返されたことが耐えられなかったのではないでしょか。聖書にはこのようなことばがあります。

 

(ヘブル人への手紙128)

「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」

 

  ダビデのアムノンへの愛は真実の愛ではないのです。

  十字架の苦しみには、父なる神から断罪される御子イエスの絶望だけではなく、愛するひとり子を見捨てなければならない父なる神の苦悩が隠されているのです。ですから、懲らしめを与える者には、強い愛が求められます。真実の愛は、そして怒りには、懲らしめる受ける者よりも、与える者の痛みの方が大きいのです。では、私たちの愛はどうでしょうか。もし私たちの正義や怒りが自分の感情の高ぶりや、プライド、そして自己中心のみのものならば、それは聖書が教える真実の怒りとは異なるのです。

 

祈り(勧め)「真実の怒りと愛」

① 真実の怒りには、相手への愛がなければならないのです。そうしなければものごとの改善は難しいのです。特に子育てでは、そうなのです。神はそのことをキリストの十字架を通して教えてくださいました。ですから、キリストの十字架について深く思い巡らしましょう。

 

 

② 真実の怒りには真実の愛が必要です。そして真実の愛は人間の愛ではなく、神からの愛が必要です。どうか、その愛をいただくために、イエス・キリストの十字架が自分のためであったと信じてください。そうするならば、神の愛をもって正義のために怒ることができるのです。