旧約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「真の知恵」

葛西福音キリスト教会 202152() 聖書のお話し 

1.テキスト「第二サムエル記1516節」

2.タイトル「真の知恵」

3.中心聖句「箴言910節」

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」

4.本文「真の知恵」

 )「聖書が語る真の知恵」

聖書が語る真の知恵は、本日の中心聖句が示しているように、主との関係、具体的にはイエスの十字架の救いにおいて、初めて真の知恵は備えられるのです。ですから、そういう意味で、真の知恵というものは悪から、罪から十字架を通して主に立ち返ることを意味します。そして「主を恐れることは知恵の初め」であるということは、イエス十字架の救いを通して、真の知恵は人々を敬虔な生活、幸いな落ち着いた生活へと導くのです。

 

本日のテーマ)「真の知恵」

Ⅰ.「人の心を盗む悪知恵」

 聖書は王子であるアブシャロムが、イスラエルの人々の心を盗む、悪知恵に富んだ人物であると語ります。

「第二サムエル記156節」

「アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。」

 

 ではどのような悪知恵で、人々の心を盗んだのでしょうか。

①「タイミングを外さない悪知恵」

 第一に、選挙活動中の政治家のように、人々との出会いのタイミングを外しませんでした。

「第二サムエル記152節」

『アブシャロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者があると、アブシャロムは、そのひとりひとりを呼んで言っていた。「あなたはどこの町の者か。」その人が、「このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者です」と答えると、』

 

 アブシャロムは父ダビデ王の権威を失墜させ、そして自分の名を人々に、特に北イスラエルの人々に売り込みます。当時、エルサレムのダビデのもとに直訴する人々が、全国から通っていたようです。特に、聖書にはユダを特別視するダビデへの不満が北イスラエルにあることを記しています。アブシャロムはそのような人々、すべてと会うべく、「いつも、朝早く、門」への道で立ち、出会いのタイミングを外しませんでした。まるで、選挙中、駅で出勤前後のサラリーマンに語りかける政治家みたいですね。

 

②「民の味方を装う悪知恵」

 そしてアブシャロムは、ダビデに不平不満を持っていたと思われる人々に、自分だったら、ダビデにはできない正しい裁きができるとささやきました。

「第二サムエル記15章4節」

『さらにアブシャロムは、「ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが」と言っていた。』

 

 このアブシャロムのささやきは巧妙ですね。王と言わず、「さばきつかさ」というあいまいな表現で、巧みに王位への野心を隠しながら、人々の味方を装います。そして、アブシャロムは王族としてではなく、民の友人として、偽りの親密な振舞も演じます。

「第二サムエル記15章5節」

「人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした。」

 

「あいさつ」とは王族への正式な礼を意味し、「手を差し伸べ」とは、王子が民の敬礼を拒んで親しげに迎えることを表わしています。そしてアブシャロムは民の心を盗むことに成功します。

 

Ⅱ.「真の知恵」

 では、聖書は私たちに知恵をどのように語りかけているのでしょう。聖書は知恵には人を滅ぼす知恵と真の知恵があると語ります。

 

①「人を滅ぼす知恵」

 聖書はこの世の知恵は罪の影響のために、自己中心であり人を滅ぼすと語ります。

「第一コリント人への手紙319節」

『なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。」』

 

 どんなに巧妙で、人々の心を盗む悪知恵であっても、「神の御前で」は、すべての悪知恵の偽りが明らかにされるのです。巧妙な悪知恵で人はだますことはできても、神は欺かれないお方です。そのため、人は自分のおかした罪の責任を必ず裁かれるのです。このアブシャロムのこの世の知恵である「悪知恵」は一時的には成功に見えたかもしれません。しかし、アブシャロムには無残な最期が待っていました。

 また、その人に悪気はなくても、根本的に人間は罪びとであり、自己中心な存在です。ですからこの世の知恵では、完全な愛や正しさは現われないのです。

 

②「真の知恵」

 では聖書の語る「真の知恵」とはいかがなものなのでしょうか。

「箴言910節」

「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」

 

「主を恐れることは知恵の初め」とあります。これは「真の知恵」を得るためには、私たち人間と神との関係がどのようなものかが問題になるということです。

しかし聖書は、私たち人間が罪のために、神との関係が壊れた状態にあると語ります。

では、どうすればよいのでしょうか。そのためには、私たちがイエスの十字架は自分の罪のためであったと信じ、罪の赦しときよめを与えられなければならないのです。そのとき、私たちは救われて、神との関係が修復され、私たちが真の知恵に生きる人生の初めとなるのです。

 

勧め)「真の知恵」

「箴言910節」「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」

 

 本日は「真の知恵」というテーマで聖書の語りかけに耳を傾けてまいりました。アブシャロム王子はこの世の知恵、悪知恵で人々の心を盗むことに成功します。しかし、この後、その進む道は滅びの道となってしまいます。あなたの今、歩んでいる道は大丈夫ですか。どうか、イエスの十字架を信じてください。そして神が備えて下さる知恵により、幸いな人生を歩んでください。また、クリスチャンの私たちも、神を忘れ、神を無視して歩むこともあるかもしれません。どうか、神はあわれみ深いお方です。悔い改めて歩み直しましょう。そして、神をまだ信じておられない方々のために宣教に励みましょう。