旧約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「王の権利」

葛西福音キリスト教会 聖書のお話し 2021年3月14日()

.テキスト「第一サムエル記8章9~22節」

2.タイトル「王の権利」

3.中心聖句「第一サムエル記818節」

その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、

助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。

4.本文「王の権利」

 序)律法の下に生きるユダヤ人

  本日は、律法について学ぼうと思います。律法とは聖書の教えるユダヤ人に与えられた神の法律です。その学びを通して、神の法とダビデ王の関係についての理解を深めたいと願います。そして神の定めによる、ダビデ王とユダヤの国民の間の権利義務の関係を整理したいと思います。

私たちの住む日本にも憲法、法律があります。それによれば国民の権利・保証されているものとして「基本的人権の尊重」、「国民主権」、「平和主義」があります。そして国民の義務としては「教育の義務」、「勤労の義務」、「納税の義務」があり、政府と国民の権利、義務の関係があるのです。

最近、憲法改正の議論がありますが、法が変われば、政府と国民の関係は少なからず変わります。そのことについても本日の話はつながるのではないかと思っています。

 

本日のテーマ)「王の権利」

あの神に王として選ばれたダビデ。そしてその血筋は、イエス・キリストの誕生までたどることができる聖なる選びのダビデ。しかし、第二サムエル記が記すダビデ王は、私たちのダビデ王のイメージを崩すものではなかったでしょうか。その理由は、私たちが現代の常識というか、法律というメガネで旧約聖書の登場人物を見るときのつまずきがあるのです。それで、本日は、律法については少し、そして王についての権利について聖書から学びましょう。そして、私たちは本日のテキストの語りかけの中で、イエス・キリストに出会うことができることを願います。

 

Ⅰ.「律法とは何か」

  それは、新聖書辞典によれば、神が罪ある人間のためにご自身の御旨を啓示し、神に近づき、隣人と共に生きるための基本的教えと言えるでしょう。その律法の内容は、道徳律、祭儀律法、社会法規、、イスラエルの歴史、律法解釈、勧告などを含んでいます。ですから、ハムラビ法典のような法令集とは異なります。

そして、こうした様々な内容を含む教えの書は、祭司たちによって契約の箱のそばに保管されました。しかし、やがて律法学者やパリサイ人に代表される律法主義が出現します。しかし、それはパウロが教えるように、その形式主義的解釈は律法に問題があるのではなく、堕落した人間に問題があるのです。

(-マ人への手紙77)

「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」

 

ですから、律法の役割が完成し、人間が神との交わりに入ることができるのは、新しい契約によって律法がその心に記される時です。そしてイエス・キリストはその新しい契約のために十字架おかかりになられ、三日後に復活されました。

どうか、皆様、イエス・キリストの十字架を信じて、新しい契約の恵みを受けてください。信じる人に、神は祝福に満ちた豊かな人生と天国への切符をくださるのですから。

 

Ⅱ.「王の権利」

①「モーセを通しての教え」

  ダビデ王はひどいことをしましたが、律法には王についてどのように書かれているのでしょうか。王についての定めは、モーセの生前告別説教とも言われる申命記に記されています。

その教えは申命記17章11節から17節に記されていて、王が自ら戒めなければならない三つのことが定められています。第一は、自分のために決して戦いのための馬を増やしてはならない。第二は、多くの妻を持ってはならない。第三は、自分のために金銀を非常に増やしてはならない、というものでした。とても良い神の法律ですね。それは神が直接、ユダヤ国民を治めているかのようなものです。ですから、あくまでも王は神の代理として国民を治めるのですね。

  このように語ると皆様は、ダビデ王やその息子ソロモン、そしてサウロ王は法を破っていると思われるでしょう。しかし、王の法律の定めは、この後の時代、正式に書き替えられていたのです。

 

②「サムエルを通しての教え」

  それは、前の王サウロが神に選ばれる直前のことでした。今、司会者に拝読いただいた箇所がその部分です。

  その教えをまとめるとこのように言えるでしょうか。サムエルは、ここで堕落した悪しき王を描いて警告しているのでないのです。神から命じられて、王の「権利」を語ります。その思いは国民の王制要求に対して、安易な期待を持つべきではないと警告を与えているのです。

  この「王の権利」によれば、イスラエルが王制になることは、17節の「あなたがたは王の奴隷となる」という結果を生むことになるのです。それが王制そのものの条件であるので、18節のように、それに驚いて「あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない」。つまり、それは神も公認した結果なのだということです。

  どうでしょうか。ですから、王の奴隷なので、ユダヤの国民はダビデ王にウリヤの戦死、その妻バテ・シェバを喪が明けてから妻とすることも合法であり非難できないのではないでしょうか。

  ただ、神だけがダビデの心に隠している罪を知り、さばきをくだすことができるのです。

  

Ⅲ.「人知で測り知れない神の御旨」

  ここまで、聖書の語りかけに耳を傾けてきましたが、何か聖書に光というか救いが見いだせないという思いが、皆様の心に満ちていないか心配です。

しかし、この新たな「王の権利」の法律の書き換えは神の御心でした。神とサムエルとユダヤ人の三者の、感情の高ぶりの結果生まれた悪法ではないのです。その証拠に神は三度も、7節、9節、22節で「民の声を聞き入れよ」とサムエルに命じます。神学者が言うように、その意味するところは、王制は、サムエルの好き嫌いを越えて、この時代と周囲の国との国際情勢の中では、人知では測ることのできない神の意志だったのです。では、人の愚かさはどうすればよいのでしょうか。いつも繰り返される人間の神の恵みへの忘恩と無礼の罪。イエスの十字架はそのためにあるのです。聖書は語ります。

(ガラテヤ人への手紙216)

「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」