福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 礼拝聖書のお話し
2021年8月22日(日)
1.テキスト「創世記15:1-10」
2.タイトル「信仰義認」
3.中心聖句「創世記15:6」
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
4.本文「信仰義認」
序)「日本人と信仰義認」
日本人にとって聖書の教えは難しいのかもしれません。日本人の宗教的背景が、信仰義認を理解しにくいものにしているのではないかとの見方を「新キリスト教辞典」では語っていました。そしてその結果生じる自己義認はむなしく(エレミヤ2:13)「水をためることのできない、こわれた水ため」的生き方になり、結局大切な(マタイ16:26)「いのちを損じ」る他はなく。その自己義認のために、逆に自己を失っていくという姿は、神のさばきではないかと語られていました。
では、私たちを真に救い得る聖書の教え、信仰義認とはどのような教えなのでしようか。本日は、アブラムのお話しから教えられ、そして信じる者へと導かれたいと願います。
本日のテーマ)「信仰義認」
よく教会では「信仰義認」という言葉を聞くことが多いですが。この「義認」ということばは、聖書の(ガラテヤ2:16)の「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」というみことばを表したことばです。
それでは、「信仰」とは何でしょうか。一般的に言われるのは「知性の状態」です。しかしそれでは信仰が「自然発生的」あるいは「直感的」に生じるものともなります。また「知性」は誤りを犯す場合もあります。キリスト教の信仰とは少し異なるようです。
やはり、聖書が語るアブラムの人生から学ぶ必要があるようですね。昔の宗教改革者も「聖書は聖書自身によって信じられるべきである」と主張しています。
Ⅰ.「アブラムの信仰義認に先行する神の導きと恵み」
アブラムは完璧な人であったのでしょうか。アブラムは失敗しない人であったのでしょうか。聖書が語るアブラムはそうではないですよね。確かに神のことばにしたがって父と別れてカランの町を出てますが、エジプトの町では大失敗をしてしまいます。神様の導きと恵みがなければ、アブラムの旅は続けられませんでした。ここにキリスト教の信仰の大切なポイントがあります。神様はアブラムに祝福の約束を与えられます。
(創世紀15:1)「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」と。
この神様からの祝福は、前の節での王たちとの戦いを経たアブラムには、これからの旅への大いなる励ましとなったことでしょう。また、アブラムに対する神様の約束への期待を確かなものにすることにもなったことでしょう。
次の節のアブラムのことばは不信仰にも聞こえますがそうではありません。
(創世記15:2)「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。」
この不満のことばは、神様への信仰の期待の強さからのことばです。不信仰からの不満とは違うのです。ですから、私たちも病気の時、人生の行き詰まりの時、はっきりとことばに出して、神様の御旨に問いかけるはげしい祈りも許されることでしょう。むしろ、自分の心を偽って、聞き分けの言いクリスチャンを私たちは装う必要はないのです。そのような祈りを教会ですることは難しいかもしれませんが、隠れたところで私たちを見ておられる神様に密室の祈りを通して訴える祈りを神様はお聞きくださるのです。神様はアブラムにこのようにお答えになられました。
(創世記15:4)「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」と。
そして、更にアブラムの信仰を励まし、増し加えようと語られました。
(創世記15:5)『「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる」』と。
Ⅱ.「アブラムの信仰義認」
アブラムは、完全完璧な人ではありませんでした。ただ、神様のみことばに聞きしたがおうと、「愛」と「聖」(きよさ)を追い求める人だったのです。その彼の信仰告白が。
(創世記15:6)「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」でした。
このことばは、一般的な信仰、「知性の状態」を越えたものでした。聖書は言います。
(Ⅰコリント2:14)「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。…御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」と。
聖霊がみことばと共に私たちのうちにお働きになられ、私たちは信仰告白に導かれるのです。その信仰告白にはきっと、みことばの知識、そして知的であり感情的な同意、最後に神への信頼がともなっていたことでしょう。クリスチャンの皆様も、自らの信仰告白の場面が思い出されるのではないでしょうか。
ただ、この後、アブラムの信仰の弱点が相次いで明らかになります。信仰を義と認められることは信仰の完成でも、その終点でもありません。「義と認め」とは、神とのあるべき関係の必要性を強く私たちに教えることばです。ですから、クリスチャンにとって、礼拝は大切なのです。日々のデボーション、祈りの生活は大切なのです。それは個人でも家族としての交わりにおいてもです。「義認」とは神との関係なくしてはむなしいとも言えます。
では、行いが伴わなくてもよいのかと言えば、そうではありません。よく言われるのが、クリスチャンとは「義人にして同時に罪人」または、「望みにおいては義人、現実においては罪びと」です。そのことに対して宗教改革者のルターは『信仰のみ、だが信仰は「のみ」ではありえない』と。聖書も語ります。(詩篇33:9)「主が仰せられると、そのようになり」と。全知全能なる創造主、神のことばはむなしく地に落ちることはないのです。神の信仰義認の宣言は、信仰を持つ者を造り変えずにはおかないのです。
また、信仰告白が人間の行為というよりは神の恵みという理解は大切です。例えば、幼い時に死んで天に召された幼児を、どう受け止めればよいのでしょうか。私たちはこのように信じます。幼児からは信仰の告白は聞けないが、神の恵みにあるのであれば、信仰が自覚的に告白されていなくても、存在していると信じます。
勧め)「信仰義認」
聖書は私たちに語りかけています。
「創世記15:6」「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と。
ですから、どうか、神様を信じてください。神様は必ず信じる者を救われるのです。
また、教会では祈りましょう。信仰告白は神の恵みのわざなのです。祈りなくして、御霊の働きなくして、救いのみわざを見ることはできないのです。
そして、コロナ禍でもできる伝道に私たちは励みましょう。
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