新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「試練を喜びと思う」

葛西福音キリスト教会 礼拝聖書のお話し 202096

1.テキスト 「ヤコブの手紙1章1~8節」

2.タイトル 「試練を喜びと思う」

3.中心聖句 「ヤコブの手紙1章2節」

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」

4.本文「試練を喜びと思う」

 序)「夫婦げんかも愛のあかし」

一見、マイナスに見えるものも、よく観察し、深くその意味を考えると、人生のプラスになるものがあります。「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」ということばがあります。語源は「なんでも食べる犬でさえ、食べない」ところから、夫婦げんかは「だれも、まともにあいてをしない」という意味だそうです。その夫婦げんかが夫婦の愛のあかしであるし、夫婦のきずなのあかしだと教えてくれる本に出合いました。黒川伊保子著の「妻のトリセツ」です。その本には「本当にいい夫の条件」が記されていました。夫が完璧だと、妻のイライラの放電先が子供になったり、妻自身に跳ね返ってうつになったりして危険だそうです。

ですから、いい夫の条件とは、「おおむね優しくて頼りがいがあるが、時に下手をして、妻を逆上させる男」だと言うのです。妻の怒りを分析すると、夫が「この世で一番腹が立つ」存在なのは、その裏には妻が「最も期待し、最も求めている」のは夫だからだそうです。つまり夫への愛と期待が、妻の怒りを誘発するのです。ですから、夫婦げんかは、相手を愛し、期待しているあかしです。夫以外のどうでもいい人なら、怒りもわかないでしょう。皆さん、怒られ上手になりましょう。

 このように、一見マイナスに思えることも、実はプラスなことがあるのです。

 

テーマ) 「試練を喜びと思う」

1. 試練を喜びと思う

ヤコブは試練をも喜びと思いなさいと教えます。

 

(ヤコブの手紙1章2節)

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」

 

() 試練の意味

では、試練にはどのような意味があるのでしょうか。「試練」ということばは二重の意味を持つことばです。このことばは「試練」とも「誘惑」とも訳せます。すなわち、一つの出来事が試練であるとともに、誘惑ともなりうることを示すのです。神様はいろいろな困難を試練として与えられますが、悪魔はそれが私たちの誘惑となるように仕向けます。

私たちが信仰を持って受け止めるとき、それは私たちの信仰を強める助けとなる神様の恵みの試練となりますが、自己中心な欲望をもって受け止めるとき、それは私たちを滅ぼす誘惑となるのです。 

ですから、神様の最善を信じる信仰を持ち、その困難を受け止めるなら、それは神様の恵みとなり、それゆえに「喜び」となるのです。

 

(2) 試練のプレゼント

では、試練のもたらすプラス面、神様からの恵みは何でしょうか。

 

 ① 試練が生み出す忍耐

  まずヤコブは、第一に忍耐が生じると教えます。

 

(ヤコブの手紙13)

「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」

 

パウロも同じことを教えます。

 

(ローマ人への手紙53)

「患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し」

 

 ② 忍耐は完全な人への道

次にヤコブは、その忍耐が完全な人への道だと教えます。

 

(ヤコブの手紙14)

「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」

 

神様が与えられる試練を負い、むしろそれを喜びとするとき、忍耐は「完全に」その働きを発揮します。そのときキリスト者は「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」となるのです。ただし、「完全な者」は罪のない完全を言うのではなく、それはキリスト者の品性と信仰生活の実践における完全という意味です。

 

2. 以上の説明で納得できない人へ

  ただ、これまでの聖書の教えでは、納得できない人もいらっしゃるかもしれません。ですから、ヤコブは続けて教えています。

 

() 人生とみことばを深く洞察する知恵をいただく

  ヤコブは人生とみことばを深く洞察する知恵を神様からいただくように願いなさいと教えます。

 

(ヤコブの手紙15)

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」

 

ヤコブは試練の与えられる目的と結果について教えました。しかし、苦難の中にあって、その試練の意味と目的を十分に理解することができないこともあるかもしれません。ヤコブはそういう人に「知恵」、すなわち人生への深い実際的洞察力を得よと勧めます。その知恵は人間的知識ではなく、神からの知恵です。神学者も言っていますが、信仰が試練を通して忍耐を生み、喜びへと至ると教えられても信じられない。たとえ知識として理解していても、自分の人生の実際の試練で信仰を働かせるのは別の事がらだと思える。どうしても信じられない人もいるかもしれません。このことは深い霊的洞察力、神様からの知恵によるものだからです。

ですから、神様に知恵をいただくように願い求めましょう。イエス様も約束されました。必ず神様は、私たちにみことばを心から信じることができる神様の知恵を与えてくださるのです。

 

(マタイの福音書7章7節)

「求めなさい。そうすれば与えられます」

 

(2) 不信仰とは何か

最後に、頭では聖書を信じているけれども、実際に信仰を働かせることができない状況について聖書から学びましょう。そのことを聖書では不信仰と呼びます。

 

 ① 不信仰とは疑うこと

不信仰とは疑うことだとヤコブは教えます。

 

(ヤコブの手紙1章6節)

「少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」

 

神様を疑うとは、神様を信じてはいるが信じきってはいない人のことです。ですから「疑う人」の心の中は神様を肯定し、また否定することを同時にしているのです。すなわち、神様の約束に立ちながら、その約束は成就しないと思っているのです。信仰は知的承認ではなのです。ですから神様の知恵が必要です。

 

 ② 不信仰とは二心の人

  不信仰とは「二心の人」とも言えるのです。

 

(ヤコブの手紙18)

「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です」

 

「二心のある人」とは、神様を疑う人と同じように「相手に半分、自分に半分かける人」です。その人は自分をも信じないが神様をも信じない人です。それゆえに、その人生には平安がないのです。