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福音伝道教団

葛西福音キリスト教会 説教



テキスト

聖霊により、光子らしく歩む

1.テキスト「エペソ人への手紙430から5章8節」

2.タイトル「聖霊により、光の子らしく歩む」

3.中心聖句「エペソ人への手紙5章8節」

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」

 

4.本文「光の子らしく歩む」

)「電気が来ていない満月」

 私たちの教会の今年度のみことばとして、創世紀2214節、「主の山の上には備えがある」というみことばがあたえられています。それは私たちが神に備えられる人、そして神に備えられる教会として恵みの目標とするものです。そのアブラハムの信仰を学ぶ上で、本日の中心聖句の後半部分、「光の子どもらしく歩みなさい」から皆様とともに学びたいと願います。

 ある牧師さんが説教の中でこのようなたとえを語られました。当時4歳ぐらいの息子さんがちょうど季節の暦の上では満月の頃のお昼過ぎ、お空にまん丸い月を眺めていたそうです。彼は牧師であるお父さんにこのように言いました。「おとうさん、お月さんは出ているけど、まだ電気がついていないね」と。その時、キリスト教の知識はある、教会にも通っている、聖書も持っている。そのような形の上ではクリスチャンではあるが光がないことがあるとの思いが与えられたと。

 では、どうすれば、キリストと聖書と信仰によって「主にあって、光」とさせていただいた私たちは「光の子どもらしく歩」むことができるのでしょうか。これから2回か3回のシリーズとして共に聖書から学ばさせていただきましょう。

 

テーマ) 「光の子らしく歩む」

1「私たちは、今は、主にあって、光となりました。」

 なぜ、私たちは「光の子らしく歩まなければいけないと聖書は教えるのでしょう。

 (1) 神は光です。

 それは神様が光なのだと聖書が教えているからです。

 そのことについて、エペソ人への手紙の中で「光」と「やみ」は対照的に描かれ、教えられています。また他の聖書個所でもこのように記されています。

 

(第一ヨハネの手紙1章5節)

「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」

 

 このように、神様は光であって、一切の暗黒はない、それがイエス様の教えだと言います。すなわち、その意味は神様が完全な聖潔を、また目がくらむような真っ白い聖さを、最後に絶対の真理をお持ちのお方なのだというのです。イエス様もまた、ご自身を指してこのように教えられました。

 

(ヨハネの福音書8章12節)

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

 クリスマスの物語で語られているように、神の御子であられるイエス様は、旧約聖書とみ使いたちの約束のことば通りに、この暗闇の世の中に、「世の光」として来られました。

 

(2) 主にあって、光となる

 なぜ、神の御子であらわれるイエス様はこの暗闇の世の中に来られたのでしょうか。その理由について聖書はこのように言っています。

 

(ヨハネの福音書12章36節)「光の子どもとなるために、光を信じなさい。」

 

それは、この世の光として来られたイエス様が私たちの罪を十字架で流された血によって贖われ、私たちを光の子どもとしてくださるためなのです。

すなわち、闇の住人であった私たちはイエス様を信じるなら、罪を赦されるのです。聖書にはこのように約束されています。

 

(エペソ人への手紙1章7節)

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」

 

 ですから、教会ではクリスマスをお祝いしているのです。私たちは以前、暗闇の住人でしたが、光として来てくださったイエス様を信じるとき、私たちは光の子どもされる恵みにあずかることができるのです。どうか、皆さんの中で、まだイエス様を知らない方は、どうかお近くの教会を訪れ、イエス様を信じてください。また、すでにイエス様を信じて光の子どもとされているわたしたちは「ハレルヤ」と心の中で大きく主を賛美しようではないでしょうか。(コロナ感染予防対策中の礼拝のため)

 

2.「光の子らしく歩む」

(1) クリスチャンの言行不一致 

 では、主イエス・キリスト様によって光となった私たちは、どのように生きるべきなのでしょうか。最初にお語りした牧師先生の息子さんがいった。満月なのに輝いていない、電気が来ていないということば、これは私たちクリスチャン、とりわけ、牧師ではありますが、わたしのような者には耳が痛い話でもあります。皆さんはいかがでしょうか。「歩きなさい」という聖書のことばは様々な訳がされているそうです。「生活せよ」「行動せよ」などもあります。光は良い実を結ぶと聖書は約束します。

 

(エペソ人への手紙5章9節)「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」

 

 すなわち、光があるならば、その光は必ずよい実を結ぶのです。英語の聖書では「fruit of the Spirit」と訳されていて、「光の結ぶ実」が「聖霊の実」と訳されています。

ですから、イエス様を信じている私たちは、すでに光の子どもなのです。そして光の結ぶ実を結ぶことが可能なのです。それは聖書がこのように約束しているからです。

 

(使徒の働き2章38節)

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」

 

 ですから、イエス様を信じている私たちはキリストの御霊ともよばれる聖霊様を賜物としていただいているのです。あとはただ満たされることを求めることです。また別の表現で言えば、イエス様が私たちの心の王座にお座りになっていただくことをひたすら求めましよう。私たちは無力なのです。ただ、神様の恵みが、聖書の約束が、聖霊様の働きが、それを信じる信仰のみが私たちに光として輝く希望を与えてくださるのです。