新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「災いでさえ私たちの救いとなる」

葛西福音キリスト教会「聖書のお話し」2021年1月17日

1.テキスト「ピリピ人への手紙1章19から20節」

2.タイトル「災いでさえ私たちの救いとなる」

3.中心聖句「ローマ人への手紙828節」

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

4.本文「災いでさえ私たちの救いとなる」

 ) 「こんな夜更けにバナナかよ、愛しき実話」

 最近、テレビで障害者の実話を映画にした「こんな夜更けにバナナかよ、愛しき実話」を見ました。俳優は、大泉洋、高畑充希(みつき)、三浦春馬と話題性と演技力のある方々でした。映画を見た私の感想は本日の中心聖句、ローマ人への手紙8章26節「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」でした。主人公は実在した鹿野靖明(やすあき)さんです。12歳の時に筋ジストロフィーと診断。母親は子どもと自殺することも覚悟するが、子どもの「ぼくは絶対死なないから」のことばに共に生きることを決意。2002年 鹿野靖明は、42歳で生涯を終えた。のべ500人を超えるボランティアが、鹿野さんを支えた。彼の夢の英検2級、アメリカ行きも叶わなかったが、最後まで、夢に向かって生き抜いた人生でした。彼は障害者ではありましたが、幸いな人生を生ききりました。

 私たちは今、コロナの影響で、健康も生活も経済、人生、命さえも脅かされています。そのような災いの中にいる私たちに聖書は何を語りかけてくれるのでしょうか。

 

テーマ) 「災いでさえ私たちの救いとなる」

  本日の聖書のメッセージのタイトルは「災いでさえ私たちの救いとなる」です。なぜでしょうか。それは聖書が神の約束のことばをこのように語りかけてくれるからです。

(ローマ人への手紙828)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 

  本日の中心聖句のように、イエスの十字架を信じるすべての人にとって、災いも幸福も、最後には必ず神は、益としてくださるとの約束が私たちにはあるのです。

 

Ⅰ「死の危険にあるパウロの確信」

  パウロは投獄され、そのままでいけば死の危険にもさらされていました。更にそのような状態のパウロをさらに苦しめるつもりの人々もいたわけです。しかし、そのような中で彼には喜びがありました。落ち着きがありました。その理由について聖書は語ります。

(ピリピ人への手紙119)

「というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、

このことが私の救いとなることを私は知っているからです。」

 

パウロの希望は人や環境、状態、自分にではなく、神にあったからです。聖書も語ります。

(マタイの福音書6章3334)

 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、

これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。

       あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

 

  神を愛する神を信じ従う人々には、必要なものが与えられます。明日という日は神に委ねて、今日という日にある自分の役割、働きに集中して生きるべきなのです。また、本日の中心聖句も重ねて語ります。

(ローマ人への手紙8章23節)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、  

       神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 

ですから、神の救いを確信したパウロは、人間的な思いを越えて、「あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っている」と19節で言うのです。

 

Ⅱ「救いを確信したパウロの切なる祈りと願い」

  次に、神の救いを確信したパウロの切なる祈りと願いについて語られています。

(ピリピ人への手紙120)

「それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」

 

①「これは真のクリスチャンと教会の姿です。」

このパウロの切なる祈りと願いには、真のクリスチャンと教会の姿が表されています。パウロは出獄できようとできまいと、「私がどういう場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める」のが、私の「切なる願いと望み」と語ります。「キリストのすばらしさが現わされること」が第一であり、このような生活をさせる信仰こそ、人を救う信仰にほかなりません。神学者は言います。「自分が得をするかどうかということが何よりも優先するような信仰は、欲望の達成とどれだけ違うといえるだろうか」と。キリストが正しく信じられ、正しく宣べ伝えられるところ以外に救いはないのです。ですから、それがなされていれば、自分のメンツがつぶされ、自分の投獄の苦しみにさらに苦しみが加えられても、それはたいした問題ではないと言うのです。ここにこそ真の救い、真のクリスチャン、真の牧師、真の教会の姿があるのです。

 

②「神の助けが必要です」

ではその姿に、いかに私たちは近づけるのでしょうか。それには神の助けが必要です。パウロの「切なる願い」は、「首を長くして待望すること」の意味があり、それは「どういう場合にも・・・キリストのすばらしさが現わされる」ことでした。私たちは、しばしば「キリストのすばらしさが現わされる」場合、つまり神の栄光を現わす場合を取捨選択しようとします。例えば、牧師のような役職、任職。しかし場合を自分で取捨選択すべきではないのです。「どういう場合にも」神の栄光を現わすことはできます。またそうならなければなりません。ですから、学校の先生でも、看護師でも、会社員、親、友達にでもです。

しかし、これは、自分の力でできるものではなく、神の助けによる必要があります。そのことをパウロは19節で「あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって」と教えています。ここでは「祈り」自体に何か力があるとか、祈りが「キリストの御霊」と同等の能力があるなどと言っているのではありません。「祈り」を通して神が助けてくださるのです。誤解のないようにしてくださいね。

 私たちは災いの中でも、伝道が困難な中にもおいても「ハレルヤ」との神への感謝が絶えないはずです。神の約束、本日の中心聖句があるからです。どうか皆様「アーメン」と、信じましょう。

(ローマ人への手紙8章28)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、 

       神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 

祈り(勧め)

1.まだイエスの十字架を自分のためだと信じておられない方のために。今、世の中は大変な状況です。自分の力だけでは生き抜くことに難しさを感じておられるかもしれません。しかし、イエスの十字架を信じる人、そのような神を愛する人に「神がすべてのことを働かせて益としてくださ」います。イエスを信じてください。

 

2.クリスチャンの皆様、信仰を持っていてもコロナの中で不安、痛み、苦しみを感じることはあるでしょう。私たち自身は弱い存在です。しかし、私たちは神の力を知っています。どうか、恵みと愛に満ちた神の約束のみことばにすがりましょう。「神がすべてのことを働かせて益としてくださ」います。どうか、神の力によって生きてください。それが真の信仰者、クリスチャンの生き方です。