新約聖書から神様の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「愛は寛容」

葛西説教20220724

1.       テキスト「ヨハネ4:1-15

2.       タイトル「違う方を見ている人へ」

3.       中心聖句「ヨハネ4:14

「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

4.       本文「違う方を見ている人へ」

     序「ニコデモとは違うタイプの女性、サマリヤの女」

 本日の登場人物サマリヤの女性は、先週お話したニコデモとは全く違うタイプの人間でした。第一にニコデモはユダヤ人を代表する人物ですが、サマリヤの女はユダヤでは嫌われものでした。第二にニコデモは尊敬される人物ですが、サマリヤの女は後ろ指をさされる罪人でした。第三にニコデモは自分からイエス様を訪ね求めましたが、イエス様からサマリヤの女に声をかけられました。第四は、サマリヤの女はその場で救われ、伝道し、イエスを証ししたのです。ニコデモの信仰が明確になるのは、後になってからでしたね。これらのことを並べて考えてみると、イエス様のおことば「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マタイ19:30を思い出しますね。

 

     本論①「サマリヤを通られたイエス様」

4節、「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」

ある日、イエス様はユダヤからガリラヤに向かわれたとき、サマリヤを通られました。地形的にも距離的にもそのコースが最適でした。しかし、当時のユダヤ人はサマリヤ人を嫌い、軽蔑していたので、この平地を行く楽な道を避けて、ヨルダン川を越えて渓谷沿いの険しい道を選んでいたのでした。

 しかし、イエス様は、今どうしてもサマリヤを「通って行かなければならなかった」のでした。それはどうしてなのでしょうか。それはサマリヤのスカルの井戸にて、一人の救いを必要としている女性に出会う必要があったからでした。イエス様は、本当に救われたいと求めている人が一人でもいるなら、囲いから迷い出た一匹の羊を捜す羊飼いのように、出かけられるお方なのです。

イエス様は教えられました。(マタイ18:12-14)「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」と。

 

     本論②「渇くことのない水」

 イエス様は旅の途中のサマリヤで疲れを覚えられました。そこでサマリヤのスカルという町の井戸のそばにすわって休憩をとられました。弟子たちは買い物に出かけ、イエス様は一人残られていました。時間は昼の十二時、一番暑い時間です。

 そこに、一人の女性が井戸の水をくみに来ました。普通、水をくみに来るのは、涼しい朝の時間でした。聖書が描くこの女性の行動は、私たちに人目を避ける彼女の罪びととしての姿を示しています。

 イエス様はその女性が罪深い女性であり、同時にその罪から救われたいと願っていることもご存じでした。それで、女性に「水を一杯ください」とお声をかけられたのです。そして「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(13.14節)と教えられました。女性はイエスのことばを信じました。15節)『女はイエスに言った。「先生。・・・その水を私に下さい。」』と。

 もちろん、この女性のイエス様への信仰告白にはトンチンカンな部分、イエス様と違った方向を見ている部分がありました。聖書学者が言うように「サマリヤの女は、いつの時代にも見られる典型的な人間の姿を示している。彼女はイエス様と話していても、物質的要求を満たしてくれるものにしか興味を示さず、霊的な問題には無関心であった」と。しかし、それにもかかわらず、イエス様は女性の眠った宗教心を呼びさますために、熱心に語られました。そして女性は、五人の夫についてのイエス様の指摘により、本当の罪びととしての自分を見出したのです。そして救いを必要とする滅びるばかりの自分を見出すことができたのです。その罪の自覚の始まりが大切なのです。すなわち自分の人生は失敗であったという真実の告白から、真のキリスト教の信仰は始まるのです。

 

     本論③「聖霊の泉」

 最後に、イエス様が言われた、永遠のいのちに至る水とは何でしょうか。それは、私たちの内に住んでくださる聖霊様のことです。私たちは罪を悔い改め、十字架を信じて、すべての罪が赦され、救われたのです。そしてその十字架の血は、私たちのけがれを全くきよめ続けるのです。そして聖霊なる神様が私たちの内に住んで下さり、私たちは喜んで神様のみこころに従う者、いつも喜びと感謝のこころをもって歩む者、福音を大胆に宣べ伝える者にさせていただけるのです。ハレルヤ!

 

     勧め「違う方を見ている人へ」

 

 あなたも、永遠のいのちに至る水がほしいと思いませんか。まだ救われていない人は、イエス様の十字架を信じて、救いの恵みをいただきましょう。そして、救われている人は、聖霊の恵みを求め続けましょう。神様は、求めてくる者に必ず与えてくださいます。