葛西福音キリスト教会 聖書のお話し 2021年2月7日
1.テキスト「ピリピ人への手紙2章5~11節」
2.タイトル「愉しい教会の心構え」(キリストの模範)
3.中心聖句「ピリピ人への手紙2章5節」
「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」
4.本文「愉しい教会の心構え」(キリストの模範)
序)「たとえ報われなくても」中村哲『良心を束ねて河となす。』
先日、NHKの番組、「医師、中村哲(なかむらてつ)73年の奇跡『良心を束ねて河となす。』を見ました。医師となった彼は、アフガニスタンの医療が非常に貧弱なことを知り、この地に医師を派遣する話に手を上げ、参加しました。そのような中、アフガニスタンを干ばつが襲い、多くの人が飢えに襲われ、彼は農業用水路の建設を決断しました。それは、3千ヘクタールという広大な荒地に水を引こうという前代未聞の計画でした。その時、彼は56歳、自らの覚悟を示すように、先頭に立って工事に臨みました。途中、百年に一度の大洪水が襲い、用水路は土砂で埋まり、振出しに戻りますが、総延長27キロのマルワリード用水路を始め、九つの堰が次々と建設され、一万六千五百ヘクタールの農地に水を注ぐまでになりました。干ばつによって荒れ果てたこの地は、恵み豊かな緑の大地へと姿を変え、65万人の命を支えています。しかし、2019年12月、中村は用水路工事の現場に行く途中、何者かの銃撃により、5人のアフガニスタン人と共に命を落としました。土地の利権争いに巻き込まれたなど、様々な憶測が飛び交う中、真相は分かっていません。中村は現地の人々から責められたり、裏切られたりすることがあったそうです。そのことについて中村は「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る。」と言ったそうです。どんなに現地の人や一緒に働いている人が、不正を働き、用水路工事現場で砂を投げつけ、先生の車が倒されても、憤ることなく冷静に原因を考えたそうです。なぜ、自分は砂を投げられたのかと。その裏にある理由を尊重して、じゃあ、何が必要かと、それを実行する人だったそうです。
私たちも同じような思いを抱くことがあるかもしれません。これから始まる2021年度、クリスチャンとしても教会としても、良い思いを持ち、良い行いをしても、それが報われないことがあるかもしれません。たとえ誤解され、非難や批判されても、たとえ報われなくとも、神とみことばの導きと力を信じて、前に進もうではないでしょうか。それが「愉しい教会」のあるべき姿だと思います。そのような私たちを神は必ず報いてくださるでしょう。
本日のテーマは「愉しい教会の心構え」、副タイトルは「キリストの模範」です。愉しいと楽しいの違いについては分かりにくいものですが、あるネット記事で分かりやすいものがありました。たのしいという思いが、外からの働きかけで生じるのか、それとも私たちの物事の受け止めなど内側の働きによるものかということでした。簡単にいうと楽しいとは、風呂に入ると体が温まるようなもの。そして愉しいとは、今あるもの、今の自分、人生、今の教会に価値や可能性を見出し、期待し、かつ喜ぶことといえるでしょうか。ですから、まず本日は、愉しい教会のための心構えを聖書の語りかけから学びたいと願います。
聖書は私たちに、キリストの模範にならうようにと語りかけます。
「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。
それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」
パウロは、クリスチャンと教会のために、イエス・キリストの模範にならうようにと勧めます。キリストは、最高の天の栄誉から最も低い所へ下りて来られました。そしてここで 「キリスト・イエスのうちにあるこのような態度」とはどのような態度かということが、続く6から8節に記されています。それは神であられた御子キリストが、人間となられたのです。聖書はこのように語ります。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
永遠の神が時間の中に、無限の神が有限の中に、創造主が被造物となって、絶対者が相対的な世界の中に入って来られたのです。なぜこのようなことを、神はなさったのでしょうか。それは私たち人間をキリストの十字架で救うためでした。もちろん神が神でなくなったというのではありません。しかし神が神であるまま、その特権を放棄されたのです。万物の主であり神であるキリストが人間となられ、しかもその上「仕える者」となられました。人間に仕えられる神が、神と人間に仕える者となられたこと以上に大いなるへりくだりはないでしょう。
では、キリストの模倣の具体的な内容について見ていきましょう。それは「自分を無にすること」と「従うこと」です。
第一は、自分を無にすることです。7節の「ご自分を無にして」とは、具体的には続く7節の「仕える者の姿をとり」です。この「仕える者」は、すなわち奴隷のことを意味します。神が奴隷のように仕えてくださるのです。それは6節「あり方を捨てられないとは考えず」に7節「人間と同じようになられた」のです。その目的は、十字架の贖いによって、私たち人間を罪から救ってくださるためでした。そのために、キリストは真の意味で人間になられたのでした。
ですから、私たちも同じように、イエスを信じたとき、キリストの十字架に私たちは死んだのです。そして、私たちもパウロのようにキリストとともによみがえり、生きるのです。
第二は「従うこと」です。それは、万物の生きること死ぬことを支配されるお方のキリストが、8節「死にまでも従われた」からです。キリストがこの世に来られたのは、父なる神のみこころを行うためでした。聖書はキリストの従順について語ります。
『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』
父なる神のみこころは、私たちの救いのためのキリストの十字架上の贖いであり、それを成し遂げるために、父なる神にキリストは「死にまで従われた」のです。聖書は語ります。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
私たちもキリストのように神のみこころを知り、従いましょう。まず、神のみこころ知るために二つ、一つは聖書に親しむことです。身近に聖書を置き、日々聖書を読みましょう。二つ目は、聖霊の助けです。キリストがこのように語られたからです。
「すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」
そして神のみこころを知った私たちは、キリストのように神のみこころに従いましょう。私たちはキリストともに十字架に死んだ者、そしてキリストとともによみがえった者なのですから。
くり返しになりますが、この二つのキリスト模範「自分を無にすること」、「従うこと」を大切にしましょう。それが「愉しい教会」の心構えだからです。きっと皆さまは今あるもの、今の自分、人生、今の教会に価値や可能性を見出し、期待し、かつ喜ぶことができることでしょう。どうか、「愉しい教会」のためにお祈りください。
関連ホームページ 自然に現わされる神のみわざ creatergod.jimdofree.com
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