新約聖書から神様の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会 説教


「平安を祈る祈り」

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福音伝道教団-葛西福音キリスト教会 礼拝聖書のお話し 2021926()

1.テキスト「マタイ10:1-16

2.タイトル「平安を祈る祈り」

3.中心聖句「マタイ10:12

「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい

4.本文「平安を祈る祈り」

 )「イエスの警告」

 この世ではクリスチャンも教会も少数派で、どちらかと言えば弱者のように思われているのではないでしょうか。そのことはイエスと弟子たちの生きた時代も同じようなものだったのです。イエスは、はっきりと選ばれた12使徒に、世的な名誉や成功を約束されるのではなく、かえって苦難が約束されているとして、彼らにこう警告されました。

(マタイ10:16)「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」と。

 それは今後12使徒がその使命に生きるとき直面するであろう、国家権力、宗教権力、また家族からの迫害による苦難への警告でした。特に伝道では、狼の中に入って行かねばならないときもあるからです。もちろん、狼とは動物の狼ではなく、悪質狂暴な人間、人の皮をかぶった狼から守られるためでした。

 そのためにイエスは12使徒に使徒の使命、伝道の準備についての注意を与えた後に、その実践方法を順序立てて教えられる中で「平安を祈る祈り」を教えられました。

 

本論) 「平安を祈る祈り」

Ⅰ「みことばと祈りに神は働かれる」

 教会ではあなたのことを祈っているよ、などと声をかける時があるかと思います。また「シャローム」とクリスチャンが出会うとき、別れるときに声をかけあうこともあるでしょう。しかし、本日の聖書でイエスが教えられた「シャローム」との祈りのことばは、単なる挨拶や礼儀ではないのです。聖書は神のみことばの力を、このように教えます。

(イザヤ55:11)「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と。

イザヤ書(40)では、人間が草のはかなさにたとえられ、そして神のことばの確かさが強調されています。それは私たちが「主を求める」、また「主に帰る」ということが、みことばの中に示された福音を信じることでしか、実現しないからです。またその信じることも、人間の力によらず、神の力によるものであることをイザヤ書は教えます。それは、みことばを私たちが聞くとき、みことばに伴って聖霊様ご自身が働かれるからです。

 ですから、狡猾な狼のような人間関係の中にあったとしても、「平安を祈る祈り」は聖霊様とともに働かれ、そして神は「必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させ」られるのです。

 

Ⅱ「使徒の使命」

 では、そのように神のみことばの守りの中にある12使徒と私たちの使命はなんでしょうか。

 その第一は、「天国は近づいた」という神様からの良い知らせを、福音を、人々に宣べ伝えることです。(マタイ10:7)「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。」

 「天の御国が近づいた」とは、神の救いはあなたに必ず訪れるという希望のメッセージです。天国の近さとは、距離や時間のことではありません。神と私たちの関係における近さです。私たちが悔い改めて神に立ち返った瞬間から、神の国に入れていただけるのです。

 この救いは、私たちの行いではなく、ただ信仰により、恵みによっていただけるのです。ですから、イエスは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われたのです。

 ですから、私たちは大いに人々を招き、またその人々のところに行き、「天の御国が近づいた」と宣べ伝えるのです。そして人々にイエスの十字架を信じることを勧めましょう。

 

Ⅲ「教会の平安を祈る」

 そして次に、その伝道を支えてくださる人々と教会のために平安を祈ることです。

(マタイ10:11-13)「どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。」

 イエスの十字架の救いを宣べ伝えるためには、その遣わされた地域において、協力者の助けは大変大切です。なにせ、狼の中に放り込まれるようなものなのですから。イエスは12使徒に、伝道を始める前に伝道と使徒の生活を支える拠点を確保し、支えてくださる人々や教会のために、平安を祈れと言われました。聖書にはあいさつと書かれてはいますが、聖書学者は「単なるあいさつではなく、実体のある祈りである」と教えます。それは先のイザヤ書のみことばにある「必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」という全知全能なる神のご意志の働きに私たちの伝道、教会の活動が全くゆだねられているからなのです。

 

勧め)「平安を祈る祈り」

第一に、みことばと祈りに神は働かれるお方なのです。私たちが信じることも、人間の力によらず、神の力によるものであることをイザヤ書は教えます。ですから、みことばを私たちが聞くときに、みことばに伴って聖霊様ご自身が働かれるように祈り求めましょう。

第二に、救われたすべての人々はイエスの弟子なのです。ですから私たち一人ひとりは「天国は近づいた」、この真実を宣べ伝えましょう。また、教会を用いていただきましょう。

まだ、イエスを信じておられない方は、どうか「天国は近づいた」のです。イエスを信じて救いを受けてください。

 

第三に、伝道に協力し、支えてくださる方のために、また教会に神の平安があるように祈りましょう。