1.テキスト 「ヤコブの手紙5章1から11節」
2.タイトル 「富と貧しさへの知恵」
「耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」
「富と貧しさへの知恵」
この世の中には、様々な誤解や誤った考え方がありますね。日本のことわざに「地獄の沙汰も金次第」というものがあります。これは、世の中はすべて金の力が物を言うというたとえだそうです。
しかし、聖書はその誤りを指摘します。
「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。」
聖書は、富や金は私たちを満足させることはないと、そのむなしさを教えます。本日はヤコブへの手紙から富、そして貧しさに対する神の知恵を学び、神に祝福される人生、神を信じる者にはどんな人生も無駄ではなく生きる意味があることを知っていただきたいと願います。
本文) 「富と貧しさへの知恵」
①富む人への警告
ヤコブは富を持つ人への警告的な知恵を教えます。
「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい」
これはヤコブの手紙を読む読者、広くローマ世界に散在している教会の人々に向けて書かれていますが、その中の「金持ちたち」の人に警告がされています。富を持った教会の人々の存在はヤコブの手紙1章10節の記述から明らかだとされています。しかし、その節には悲しむべきことに、キリスト者の群れの中で貧しい者がしいたげられていたことが推測されています。
ただ、この個所について神学者が補足をされていましたが、新約聖書のどこにも、富める者が富そのもののゆえに責められている所はない、と言います。
では、この個所の警告の内容は何でしょうか。それは富のゆえに誘惑に陥りやすいので、警告がなされているのです。富の問題は、それがあるがゆえの誤った安心感、そして権力への貪欲な執着心です。権力とお金は親戚やお友達のような関係ですからね。また、主イエスも警告されました。
(マルコの福音書10章23節) 「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」
主イエスは、富める人が天国に入ることが、いかに困難であるかを教えられました。
もちろん、「金持ちたち」と言われている人の中には、教会の人々の他に、教会の外にいる金持ちたちにも向けられています。
しかし、この節の第一の目的は、教会の人々が富を重要視、また富に執着することのないようにすることにあるのです。それは富を過信し、その上に安住する者に下る報いは悲惨なものだからです。その理由は、富を過信する者は、愚かであり、罪に陥りやすいからです。
なぜ、富に信頼を置く者が愚かなのでしょうか。
それは第一に、富は腐り、富の象徴の着物は虫に食われるからです。ヤコブは教えます。
「あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており」
富は様々な財産の総称として語られていますが、ここでは穀物などを指すと考えられています。また、着物は当時の富の代表的なもので、贈り物や買い物の支払いに用いられたそうです。3節の金銀と並んで金持ちの財産でした。すなわち、金持ちの貪欲はさらなる強欲を生み、飽くことを知らず、そして使わないで、たくわえにたくわえた富は腐り始め、虫が食い始めている愚かな様を言っているのです。神学者は次のようなことばを残しています。「神は金銀をさびのために、着物を虫食いのために意図されたのではなく、人間の要に用いるべき作られたのである」と。
そして第二に、金や銀であってもさびてしまうとヤコブは警告します。
「あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。」
一般的に、金や銀がさびたり腐ったりはしませんが、おそらく変色することを強調したのであろうと言われています。ここでヤコブは「終わりの日」とあるように、この世において最も恒久的価値を持つと思われる金銀すら、主イエスにある永遠なるものの前には全く色あせると、教会の人々に教えているのです。ここでも神学者はことばを残しています。「キリスト者は常に終わりの日に生きている」と、その意味は、教会は歴史の終わりである主の再臨の待望の中に生きているということです。
ヤコブは4節から6節にかけて、3つの富む人が陥りやすい罪について警告しています。その第一は労働者への正しい賃金の支払いです。
「見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。」
富む人の第一の罪は、富への飽くなき貪欲が引き起こす「労働者への未払い賃金」です。
第二の罪は節度を越えたぜいたくと快楽の追及です。
「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」
富む人の貪欲の第二の罪は「ぜいたく」と「快楽」です。これは節度を越えた浪費を指しています。「殺される日にあたって自分の心を太らせ」とは、先の「終わりの日」、主イエスの再臨の日の神の審判の日を意味しています。そして3番目の最後の罪は。
「あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」
富む人のあくなき貪欲の追及は、殺人に至ると警告します。「正しい人」とは「貧しい人たち」のことです。金持ちたちは彼らの富をもって法廷をさえ支配し、貧しい者たちを不当にさばき、その命においても経済的、社会的にも殺していると警告しています。
①主の再臨を待ち望み、耐え忍ぶ。
次に、ヤコブは貧しい人たち、虐げられた人たちへの励ましの知恵を教えています。
「兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。」
「主が来られ時まで」とは、すべての不正を正し、正義のさばきをくだされる主イエスが、栄光のうちに再び来る再臨のことです。また8節にもあるように「主の来られる」日を信じて耐え忍びなさいと勧められています。ですから、不正な者たちに対して、神がただちにさばき、報復されないからと言って、9節に教えられているように神に対し、兄弟に対してつぶやいてはならないのです。神学者はこの忍耐には、ガラテヤ人への手紙5章22節の御霊の実が必要であり、また聖霊の導きにゆだねるクリスチャンであるなら可能だと教えています。そのことをヤコブは、収穫を待ち望む農夫にたとえています。「前の雨」は種まきの直後の10月、11月に降る「秋の雨」です。「後の雨」は実が熟し始める直前の4月、5月に降る「春の雨」を指します。それは収穫が神に忠実な者にとって神からの確実な約束だからです。また、神学者は再臨について、このようにことばを残しています。「ここに初代の信徒の信仰の力の秘訣がある。キリスト者が主の再臨を不確実なものと感じ、遠い将来のことと思い始めたとき、それはもう彼の希望ではなくなり、彼の信仰は一つの主義へと堕落する。再臨はキリスト教教理の中心に位置する重大事である。なぜなら、信仰は希望だからである」と。
最後にヤコブは、つらく苦しく悲しいときには、旧約聖書の偉人たちを模範にしなさいと勧めます。
「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。」
そして、ヤコブはヨブの名前を出します。
「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」
「ヨブの忍耐」のことは、皆様もよくその名を知っていることでしょう。ここでの「忍耐」ということばは共同訳聖書は「耐え抜いた」と訳していますが、神学者は「ここに意味されている積極的勇気や決意を表現するのに十分な強意の英語はない。(あえて言うならば)もちこたえるなどの語が最も近く」と教えます。しかし、皆様は友人のことばに反論するヨブの姿から、「耐え忍んだ人」の姿には遠いように思えるという意見もあるでしょうが。ヨブの忍耐の偉大さは、どんな境遇の変化の中にも一貫して神への信頼を失わなかったことにあります。有名なみことばをあげると。
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
(ヨブ記2章10節)
「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」
新約聖書中でヨブに言及されているのは、ヤコブの手紙だけですが、その目的について神学者は、「苦難は無意味ではなく、その中に神が成就される結末と目的とがあるという確信に、忍耐は支えられている」と。私たちは、ヨブの苦難と忍耐だけでなく、ヨブのために「また、主が彼になさったことの結末」から、主の慈愛とあわれみを学ぶことは大切です。また、今、つらく苦しく悲しい時を過ごしておられる方には信じがたいかもしれませんが、神の祝福の「結末」には「成り行き」をも含められています。「成り行き」とはマタイの福音書26章58節のペテロが過ごしたひと時です。すなわち、ただ結果(ゴール)だけではなく、その運び方(プロセス)すべてをも含め、神の祝福へとつながるのです。ヨブは物質的に前以上に祝福されただけでなく、神を見ることが許されました。それによって彼は、神の全能と摂理の秘儀とに対して深い信仰的理解をも与えられたのです。ヨブはこのように告白しています。
「ヨブは主に答えて言った。あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。さあ聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」
ですから、今、つらく苦しく悲しい思いの中に沈んでおられる方も、主の恵みを信じて耐え忍んで生きてください。神はあなたの人生のすべてを必ず意味あるものとしてくださるのです。神を信じる人にとって、どんな人生も生きる意味と価値があるのです。今はそう感じられないとしても、神は必ずあなたを祝福されるお方です。
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