新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「子育ては親育ち」

葛西福音キリスト教会 聖書のお話し 2021年2月28()

1.テキスト「エペソ人への手紙6章1~4節」

2.タイトル「子育ては親育ち」

3.中心聖句「エペソ人への手紙64節」

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。

かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

4.本文「子育ては親育ち」

 序)「子は親の鏡」

  本日のテーマは子育てです。子育ては難しいものですね。しかし、学校で子育てについて学んできたという人は少ないでしょう。日本のことわざに、「子は親の鏡」というものがあります。このことわざの意味は、子どもは親から大きな影響を受けるもの。また子どもの振舞を見れば、親の考え方や品性が分かるという意味です。このことわざは、私たちが子どもを育てるということは、すなわち私たち自身がどのように育っているのかが、問われているということを教えてくれるのではないでしょうか。

 

本日のタイトル) 「子育ては親育ち」

  本日はこれまで、学んできました。第二サムエル記13章のダビデ家族の問題を背景にして、聖書のみことばが教える子育てについて教えられたいと願います。そして子育ては、私たちの育ちが問われることを知り、私たち自身も神の霊とみことばの導きにより、更に成長させていただきましょう。

 

. 「子は親の鏡」 

  聖書には「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記2012)と父母に対する子への戒めは多くありますが、子に対する父への戒めはほとんどありません。その数少ないうちの代表的な戒めが、本日のテキストの箇所です。

(エペソ人への手紙6章4節)

「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。

かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」

 

最初に少し、このみことばについてご説明させていただきます。「子どもをおこらせてはいけません」とは、子どもを叱ってはいけません。子どもを甘やかしなさい。また子どもの機嫌を損ねてはいけませんという戒めではありません。「子どもを怒らせ」るとは子どもの信頼を裏切ることです。これは親というものがその優越性や経済性で子どもに対して優位であることをいいことに親権を振り回すことを戒めているのです。

ですから、親の子どもへの虐待など問題外です。そのようなことをしてしまう親御さんは早く、自ら専門家に助けを求めてください。必ず助けはあります。子どもの傷が深くならない前に。また、周囲の人々がおせっかいと言われようとも、無関心でないようにと祈ります。話を戻ますが、これはお父さんへの呼びかけであるとともに、お母さんへの呼びかけでもあると私は思います。

そして、このみ言葉に「主の教育と訓戒によって育てなさい」と教えられている意味について神学者は「親自身がまず主の学校において学び、主の愛によって生かされていなければはならない。」と教えています。それは子どもに聖書を教える両親が、まず聖書に神の前に謙遜に学んでいなければ、子どもを「主の教育と訓戒によって育て」ることはできないからです。

本日のタイトル「子育ては親育ち」のごとくなのです。

 

Ⅱ.「子育てに苦労する父ダビデ」

  父ダビデの子育てはどうだったのでしょうか。ダビデの三番目の子どもであり、傷つけられたタマルの兄アブシャロムは父ダビデが信頼を裏切ったことに深く傷ついていました。それは父ダビデが、傷ついたタマルのために何もしなかったからです。そして信頼を裏切られたアブシャロムの心は、憎しみと怒りに変わっていきました。

(第二サムエル記1325)

『王はアブシャロムに言った。「いや、わが子よ。われわれ全部が行くのは良くない。あなたの重荷になってはいけないから。」』

 

  この父ダビデの言い訳めいたことばを聞いたアブシャロムは、父がアムノンの罪を不問にすることをすでに決めていると悟ったのでしょう。

(第二サムエル記1326)

『それでアブシャロムは言った。「それなら、どうか、私の兄弟アムノンを私どもといっしょに行かせてください。」』

 

  おそらく、アブシャロムは自らの手を復讐の血で染めることを決意したのでしょう。

  しかし、ダビデは心配があったのでしょう。王子たちみんなでお祝いするようにします。

(第二サムエル記13章26-27)

『王は彼に言った。「なぜ、彼があなたといっしょに行かなければならないのか。」しかし、アブシャロムが、しきりに勧めたので、王はアムノンと王の息子たち全部を彼といっしょに行かせた。』

 

  アブシャロムは、羊の毛の刈り取りの祝いでアムノンに手をかけます。アブシャロムは妹タマルのために復讐を果たしました。父ダビデが正しい裁きを下さなかったばかりに、このようになってしまいました。ダビデが本気でアムノンを愛していたらなら、懲らしめを与えていたなら、このような悲劇は起こらなかったのではないでしょうか。

 

Ⅲ.「ダビデの罪」

  ダビデは愛する二人の息子を失ってしまいました。長男アムノンを手にかけた三男アブシャロムは、父ダビデの顔を避けてゲシュル王のもとに身を寄せます。しかし、ダビデはアブシャロムを連れ戻そうとはしませんでした。なぜ、ダビデはアムノンの罪、アブシャロムの罪と向き合えなかったのでしょうか。それは本日のタイトル「子育ては親育ち」だからです。息子たちの罪に向き合えないのは、ダビデ自身が自らの罪に向き合えないものを持っていたからではないでしょうか。ダビデは過去(第二サムエル記11-12章)に家来の妻バテシェバと良くない関係を結んでしまいました。その罪を悔い改めずに隠すために、夫である家来ウリヤを戦いで命を落とすように仕組んでしまいます。ウリヤの死の全責任はダビデにありました。ダビデはアムノンがタマルを傷つけた罪、そしてアブシャロムがその復讐のためにアムノンを手にかけた罪に、自分の過去の罪が重なり、自分には息子たちを責める資格などないと悩みつつも、十分な悔い改めに導くことができなかったのではないでしょうか。