新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「喜びの理由、見えないものに目を留める」

葛西福音キリスト教会 説教2021年1月24日(日)

1.テキスト「ピリピ人への手紙1章21から30節」

.タイトル「喜びの理由、見えないものに目を留める」

3.中心聖句「第二コリント人への手紙4章18節」

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。

           見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

 

4.本文「喜びの理由、見えないものに目を留める」

 序)「教会は何を優先する?合理的?愛?

NHKの教育テレビの番組、心の時代、タイトル「裏も表もわが人生」で、教会で大切にするべきものを教えられました。その番組では、ごっちゃんと呼ばれる吉祥寺カトリック教会の後藤文雄神父の体験が紹介されていました。神父の生家は浄土真宗のお寺さんでしたが、父との確執を経て、教会と出会われ、神父になられました。そのお話の中で後藤神父が奉仕について、考え方が変えられた経験をしたというのです。それは労働者の町の山谷のドヤ街で、溝に落ちて動かない人を見つけたときのことです。その人をブラザーの家に連れて行くとき、その人は失禁し、その人の長靴から肥溜めの匂いがし、神父さんたちの衣服も汚れてしまいました。神父は合理的にリヤカーで介抱する人々運べば、もっと多くの人を楽に運べるとブラザーに提案しましたが。ブラザーは物を運ぶならリヤカーはいい。しかし、人を運ぶにはリヤカーは都合がよくないと、人間らしく運びましょうと。それは「その人と共に、痛みを共にしながら」ということでした。ブラザーは「あなたも腰が痛いでしょ。その痛みを共にしながら運ぶのです。リヤカーに乗せるとその痛み、感じません」と言うのです。

それは教会に喜びが尽きず、喜びの教会と呼ばれるためには、教会が目を留め、優先し、大切にするのは「愛」だということです。愛は目には見えませんが、神の恵みを私たちに注ぐ保証であり、神の愛を受ける資格でもあります。ですからそのような教会には喜びが尽きないのです。

 

テーマ) 「喜びの理由、見えないものに目を留める」

.「生も、死でさえも喜びは尽きない」

  このピリピ人への手紙の特徴は「喜び」の手紙だと呼ばれています。それは「喜び」、「喜ぶ」ということばが手紙としては短い、たった4章の中で、16回も使われているからです。特に、1章と2章では、その3分の2が集まっています。この手紙が死の危険も予想される獄中で書かれたとは驚きですね。次のことばはその理由を知る手掛かりになるのでしょう。

(ピリピ人への手紙1章21節)「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

 

 このことばを皆さんはどのように受け止めておられるでしょうか。まず、前半部分の「生きることはキリスト」とはどのような信仰なのでしょうか。彼は、「生きることがキリストのため」とか「キリストのあがめられるため」とは言わずに、ただ「キリスト」だと言いきります。それは、パウロにとっては、生きているのは彼自身ではなく、彼のうちにいますキリストなのだという意味です。すなわち。

(ガラテヤ人への手紙220)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

そして残りの後半も「死ぬこともまた益です」と彼は言います。聖書は死がすべての人にとって罪の刑罰としての呪いだと教えます。しかし、主イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架上で死んでくださったことにより、罪の刑罰は終わり、死の呪いという性格は消えたのです。だから、イエス・キリストを自分の救い主として信じる者にとっては、死はもはや呪いではなく、神の国への入り口に変わったのです。だから、死ぬことは益なのです。死とは天国でイエスと共に生きるスタートです。この世にいる間、私たちの救いは未完成です。それゆえにしばしば罪を犯し、人を傷つけかねません。パウロの早く救いの完成を望むということは、キリスト者であればありうることでしょう。

 

Ⅱ.「信仰共同体の教会は、喜びが尽きない」

 次にパウロは、教会が信仰共同体であること、すなわち「コイノーニア」と呼ばれることを大切にすることが、喜びが尽きない秘訣であると教えます。特にこのピリピ人ヘの手紙には「コイノーニア」ということばが多く、6回も出てきます。この「コイノーニア」はただ単に人と人との交わりではありません。先に述べたように、地上でのクリスチャンは不完全であり、その交わりでは、しばしば自己中心な思いにより、教会の交わりを壊してしまいます。聖書的な「コイノーニア」とは、クリスチャンの間のキリストにある、交わりを含む生活です。そして教会の聖餐式に、その思いと願いが込められています。

 パウロはその交わりのために必要なものを教えています。ただ一つと。

(ピリピ人への手紙1章27節)

「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており」

 

 パウロはここで、ひとりひとりのキリスト者がキリストの福音にふさわしく生きていくときに、教会には霊的一致が与えられると教えています。どういうことでしょうか。それは一致を目的として一致が得られるものではなく、福音の信仰のための共同の戦いがなされていくときに、結果として一致が神から与えられものだということです。パウロは一致の重要性を、教会およびクリスチャンの福音の信仰のための戦いと結びつけて教えています。教会が伝道のため「戦う教会」である以上、一致は非常に重要なことです。1/10の説教でお語りしました「ねたみや争い」による福音宣教、「党派心」による福音宣教などはありえないことになります。しかし現実には聖書に記されているように、ピリピの教会の一部の人はそうでした。パウロは「キリストの福音」にふさわしい生活、その「キリストの福音」を宣べ伝える戦いの自覚にこそ、神からの真の一致が与えられると説明しています。その一致は人間の一致ではありません。神の力と恵み、導きによる一致です。聖書にはこのように記されています。

(エペソ人への手紙43)「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」

 

聖霊がキリスト者を強め、一致へと導いてくださることが重要です。ですから、教会の交わりが「コイノーニア」という、イエスを中心とする霊的交わりを与えられるためにも、伝道に励みましょう。

  伝道に励む教会に与えられる「コイノーニア」は神から与えられる交わりです。この神からの交わりが教会に与えられている限り、教会の外からの迫害にも、教会内部からの交わりの破壊にも、教会は壊されません。だから、私たちの信仰共同体の教会の喜びは尽きないのですね。

 

祈り(勧め) 「喜びの理由、見えないものに目を留める」

「第二コリント人への手紙4章18節」

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。

           見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

 

1.まだイエスの十字架を信じておられない方々へ。本日は皆様に尽きることのない喜びについて、聖書の語りかけに耳を傾けていただきました。聖書は「生も、死でさえも喜びは尽きない」と語ります。人にとって死は避けられない問題です。またコロナ禍の今、生きることも不安と苦痛を抱いている方もおられるでしょう。しかし、聖書には解決があるのです。イエスの十字架を信じるなら、「生も、死でさえも喜びは尽きない」のです。

 

 

2.すでにイエスを信じておられる皆様へ。本日はクリスチャンの二つの尽きない喜びについて聖書の語りかけに耳を傾けていただきました。「生も、死でさえも喜びは尽きない」のです。また「信仰共同体の教会は、喜びが尽きない」のです。ですから、伝道に励みましょう。伝道に励む教会に、神はコイノーニアという交わりを教会に備えて下さるのですから。