新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「内住のキリストの力で、生きる

福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 2020年8月9日

1.タイトル「内住のキリストの力で、生きる」

2.テキスト「コロサイ人への手紙12429

3.中心聖句「コロサイ人への手紙129節」

「自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」

 

4.本文「内住のキリストの力で、生きる」

 序)「自給自足より、神給自足」

  コロナ禍の中、健康的にも経済的にも、ぎりぎりで生きている人が増えているのではないでしょうか。そのような皆様に聖書から耳よりのお話をしたいと願っています。

「自給自足」ということばは大切です。それは社会生活を営む上でも、教会の運営においても大切です。その大切さを理解したうえで、私たちの教会は、今年度のみことばとして、創世紀2214節にある信仰の父アブラハムの信仰、「主の山の上には備えがある」というみことばを信じ、私たちが神に備えられる人、そして神に備えられる教会の恵みを経験することを祈り求めています。

それは自給自足も大切ですが、神給自足こそ、私たちの生きることばとして信じさせていただきたいと願っているからです。本日は、聖書から「内住のキリストの力で、生きる」ことを学び、アブラハムの備えられる信仰をパウロの信仰である神給自足として深めたいと願います。

また、教会で主に仕える道にも、多くの困難と試練とがあることでしょう。しかし、自分を見つめるとき、みずからがあまりにも無力な土の器にすぎないことに、大きな衝撃と失望を感じることに多くの信仰者が同意することでもあるでしょう。しかし、パウロは、その時にこそ、自分ではなく、「自分のうちに力強く働くキリストの力」を信じ頼りなさいと教えます。ある神学者がいうように、パウロは「自給自足」でなく「神給自足」でした。これこそ私たちがあらゆる境遇に対処する秘訣であり、これこそ教会の外にいる人々に宣べ伝えるべき「内住のキリストで、生きる」ことなのです。

 

本論「内住のキリストの力で生きる」

1.「受ける苦しみを喜びとして」

 (1)「パウロの受けた苦しみ」

パウロは自分自身の伝道活動を例にあげて、私たちクリスチャンの召命とその心構え、方法、そしてその力の泉が何かを私たちに教えようとしています。

 まず、第一に私たちが教えられるのは、パウロの伝道活動で受ける苦しみが、喜びであったということです。

 

(コロサイ人への手紙124節の前半)

「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」

 

①「どのような苦しみ」

  それは、どのような苦しみなのでしょうか。別の聖書個所にはこのように記されています。

 

(第二コリント人への手紙18)

「兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり」

 

  それは非常に激しい、耐えられないほどの圧迫、そしていのちも危ういほどの苦しみでした。

 

②「誰のための苦しみなのか。」

 それは誰のための苦しみなのでしょうか。聖書にはこのように記されています。

 

(コロサイ人への手紙124)

「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです」

 

・「あなたがたのため」

まず、パウロが第一にあげるのは「コロサイ人への手紙」を読んでいる、あなた方一人一人ですと。伝道とは、教会での活動、日曜日の奉仕だけではないのです。私たちの目の前にいる家族、知人のために、私たちはどれだけイエス様を宣べ伝えているでしょうか。

・「キリストのからだなる教会のため」

  そして、次に「キリストのからだなる教会」です。イエス様が十字架のお苦しみを通して救われた人々の教会です。ですから教会では礼拝とともに奉仕活動も大切なものです。私たちは、どれほど、キリストのからだなる教会に、自らを教会奉仕に献げているでしょうか。聖書も勧めます。

 

(ヤコブの手紙122)

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」

 

(2)「パウロにゆだねられた務め」

  次に、パウロにゆだねられた務めについて、このように聖書に記されています。

 

(コロサイ人への手紙125)

「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです」

 

  ここで言われていることは「ステュワードシップ」と言い替えられるでしょう。それは他人から預かった資産を、責任をもって管理運用することを任せられることを意味します。ですから、「教会に仕える者」として必要なことは、聖書のみ言葉から神の声を、そして教会の仲間の声を聴きながらご奉仕しましょう。牧師自身も教会に任命されたり、招聘されたりします。どちらも、自分以外の声を聴くことが求められます。そして、それはすべてのクリスチャンに求められることだと思います。ですから、私たちの奉仕は、自分の思いも大切ですが、それ以上に聖書のみことばに導かれること、そして教会の声を聴きながら行っていただきたいと願います。

 

2.「聖書の奥義とはなにか」

  聖書には26節から「奥義」ということばが出ていますが、いかがなものなのでしょうか。

 

(1)「奥義とは、内住のイエス様」

①「奥義とは、内住のイエス様」 

  聖書は、奥義とは私たちのうちに住まわれるイエス様だと教えます。

 

(コロサイ人への手紙127節の後半)

「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」

 

②「奥義を宣べ伝えることが伝道」

  そしてパウロの務めとは、この奥義である内住のイエス様を伝えることでした。

 

(コロサイ人への手紙128)

「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。

 

ですから、私たちもこの「奥義」であるイエス様をあらゆる人々に、パウロのように宣べ伝えましょう。

 

(2)「内住のキリストの力で生きる」

  しかし、パウロの伝道の生涯は平たんな道ではありませんでした。このように言っています。

 

(ピリピ人への手紙41213)

「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」

 

  パウロの務めには、好ましいこと、好まざること、様々なことが彼を襲いました。しかし、「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と宣言します。私たちもイエス様に従い、イエス様を宣べ伝える教会の働きで様々な場面に遭遇するでしょうし、神様のためにお仕えする中で、「貧しさ」「飢え」「乏しさ」を体験するかもしれません。しかし、内住のキリストの力があるのです。パウロも「どんなことでもできる」と自らの体験から「神給自足」を証します。

 

(コロサイ人への手紙129)

「私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」

 

 どうか、私たちもパウロのように「自分のうちに力強く働くキリストの力」「内住のキリストの力」で、この困難なコロナの世界を力強く生き抜こうではないでしょうか。