葛西説教2020年8月30日 礼拝聖書のお話し
1.テキスト「コロサイ人への手紙3章12節から17節」
「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」
4.本文「クリスチャンのドレスコード」
ドレスコード(dress code)を漢字で表記すれば、「服装規定」となります。その一般的な意味は、社会の様々な場所、また機会で、行事や催し物、今風にいえばパーティーやディスコなどで相応しいとされる服装のことです。国家レベルにおいては、王様、首相、軍人などに、その役職や格式により、服装が細かく規定されています。 日本でも、皇居での勲章(くんしょう)や褒章(ほうしょう)の授与式における服装を規定した「総理府告示-勲章等着用規定」が定められています。
パウロは本日のテキスト箇所で、神の国に国籍を持つすべてのクリスチャンに対しても、キリストにある新しい人に相応しいドレスコードがあると教えているのです。
では、「新しい人を着る」とは、どのようなことなのかを皆様とともに考えてまいりましょう。
テーマ) 「クリスチャンのドレスコード」
パウロは、まず着るべきドレスコードの五つ教えています。
「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」
では、ここでパウロが教える身につけるべき五つのドレスコードについて、ご一緒に考えてみましょう。
まず、第一に「深い同情心」が挙げられています。同情とは、他人の苦しみ、悲しみ、不幸などをその人と同じように感じ思いやることです。
次に「慈愛」が挙げられています。慈愛とは、わが子を愛するような慈しみの気持ちです。それはイエス様が示された例を新約聖書に見ることができます。ある罪深い女性が、涙でイエス様の御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗ったことに対するイエス様の態度が、ここでいうところの慈愛です(ルカの福音書7章36節-50節)。
謙遜は以前も取り上げましたが、神学者が指摘するように「能ある鷹は爪を隠す」というよりは、
イエス様が教えられたことば「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ福音書5章3節)が示す人です。それは神様の前に、自らの罪深さを認める人だということです。そういう人は罪赦されて、天の御国に迎え入れられるのです。
この柔和も以前取り上げましたが、原語では先の「謙遜」とほぼ同じ意味です。神学者が指摘するように、イエス様が教えられた「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」(マタイ福音書5章5節)が示す人です。罪深い自らが全く神様の恵みで救われたことを知るゆえに、他者に対して、やさしく振舞うことができることです。そしてイエス様が約束されたように、その柔和な人々により教会は建てられ、広がっていくのです。
最後の寛容は、周囲の人の愚かさや、無知にも、決して節度のない批判や愚痴をもって反発しないこと、他者の嘲笑や軽蔑、悪意ある態度にも、決して恨みや怒りを駆り立てない生き方です。
ここまで、イエス様を信じた人が着るべきドレスコードを五つ学んでまいりました。しかし、それは律法主義的な、すべきこと、しなければならないことではなく、人間の訓練や努力をはるかに超えているものです。もし、あなたがイエス様の十字架を信じていなければ、あなたはこの五つのドレスコードを守ることはできないでしょう。あなたは自分自身に失望するだけかもしれません。またあなたは聖書が偽善者の教科書だと批判するだけかもしれません。
しかし、もし、あなたがイエス様の十字架を信じるなら、あなたは新しい人に変えられるのです。そして五つのドレスコードを守る力と聖さを神様から備えられるのです。
次にこの五つのドレスコードを身に着けた人の、周囲の人間関係は必ず変わります。その夫婦関係、親子関係、そして教会の人間関係がすばらしく温かいものに変わります。決して、あなたは夫婦や親子、教会の関係を愛おしく、楽しみに思うことはあっても、解消したり、破壊したいと思わないはずです。
そのための着こなしと振る舞いについても教えられましょう。
パウロは、キリストにある人が新しい人のドレスコードに生きるとき、それは新しい人間関係に生きることだと教えます。
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」
先の五つの教えが示す、具体的な人間関係に必要な「互いの忍び合い」と「互いに赦し合い」です。もし、私たちが、ただ十字架の恵みによって救われたのなら、そうすべきだと。まさに「主の祈り」を心から祈っているなら、私たちはそうすべきだし、神様の恵みでできるはずなのです。でなければ、唱えられた「主の祈り」がむなしくなります。
次は、愛です。
「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」
聖書は愛を、キリスト者の最高の徳だと教えます。
(Ⅰコリント人への手紙13章13節)「一番すぐれているのは愛です」
次は、「キリストの平和が心を支配する」ということです。
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい」
平和は、対人関係と、教会としてのキリスト者の一致とかかわることです。まさに隣人愛の必要を教えています。また、平和が支配、すなわち審判員として行動するのです。「支配する」とは、原語では競技の審判員を意味します。人間関係で愛と憎しみという二つの感情がある時でも「キリストの平和」が支配し、審判員となるなら、そのためには審判者の神様の判定にゆだねる信仰が必要です。そのとき、教会の一致も、あらゆる人間関係も感謝となるのです。
次は、教会に向けて語られた教えです。
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」
この個所は神学者が言うように、個人的というよりは、コロサイの教会という共同体に向けられた教えです。ですから、これらが教会のすべてだとは言っていませんが、これらがなければ、キリストの教会と呼ばれないのではないでしょうか。
最後の17節が、着こなしと振舞のまとめとなっています。
「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」
この節は、今まで述べてきたまとめと言われています。ある外国の大学の教授就任講演の中で、「人間の活動の全領域の中で、すべてに主権を持たれるキリストが、『これはわがものなり』と主張できないような領域は一分たりとも存在しない」と言ったそうです。そのように、それは私たちの生活の全領域の中に主キリストの支配を認めながら生きることが求められているのです。近代の教会の悲しい事件はみな、人間が神の支配から独立し、自律するとき起こるのです。
ですから、とくに教会は16世紀の宗教改革者のように、信仰と教会の権威が問われるとき「聖書のみ」を、救いにおいては「キリストのみ」を掲げましょう。そうすることによって、「ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によって」生きることの模範を彼らのように残すこともできるでしょう。
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