福音伝道教団-葛西福音キリスト教会 礼拝聖書のお話し2021年10月31日(日)
1.テキスト「マタイ15:21~28」
2.タイトル「イエスがほめられる信仰」
3.中心聖句「マタイ15:28」
「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」
4.本文「イエスがほめられる信仰」
本日はイエスから冷たいようなおことばが投げかけられても、なおも叫びながらイエスに食い下がるお母さんの姿から、「イエスがほめられる信仰」を学びたいと願います。
本日の個所に似た個所がこのマタイの福音書にはありますね。
(マタイ7:7-8)「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」と。
このみことばと本日のテキストから私たちが第一に教えられるのは、神のみ旨がはっきりと示されるまで、根気よく、あきらめないで、忍耐をもって、執拗に願うことが大事だということです。それが「イエスがほめられる信仰」のポイントですね。では、本文にそってもう少し、聖書の語りかけに耳を傾けましょう。
Ⅰ.イエス様の冷たい態度はなぜ?
まずなぜ、イエスは冷たい態度をとられたのでしょうか。その理由について、聖書は語っています。
(マタイ15:21-22)「それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。」と。
この「ツロとシドン」という場所は、現在のレバノンにあたり、当時は罪の町として名高くイエスのメシヤ的な活動がなされる場所とはされていませんでした。しかも、このご婦人はカナン人でした。聖書は、そのような人々との交際を避けるようにと命じていました。
(エズラ9:1)「イスラエルの民や、祭司や、レビ人は、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人などの、忌みきらうべき国々の民と縁を絶つ…」と。
また、イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われ、この時はその働きがイスラエルの民に対するものであることを明確にされています。
ですから、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」と、このお母さんがこのように懇願していても、イエスは彼女に一言もお答えになりませんでした。それにしてもイエスの態度は冷たいですね。悪霊に取りつかれた娘を思う一心からのイエスへの叫び。聞く、私たちもあわれみの情を感じざるをえない母親の叫びではないでしょうか。
しかし、ここでイエスが私たちに教えようとされるのは、「イエスがほめられる信仰」です。イエス様って、一見やさしそうだけどほんとうは冷たいお方なんだ、という表面的な聖書の読み方で終わらないでいただきたいのです。イエスがいまだかつて、助けを求める人を拒んで帰されたことはないのです。イエスは、異邦人の地における異邦人の女性の信仰を試され、真実なものであるかを、知ろうとしておられるのです。
(マタイ15:25-26)『その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。』
イエスは、お母さんがイエスの前にひれ伏し、いっさいの希望を託して執拗に願っても、イエスは再び、彼女の信仰がみ旨にそったものかを確かめるため、意地悪のようにも聞こえる返事をされます。ここで誤解をされないように説明しますと、それは「小犬」という表現の示す意味です。ユダヤ人は異邦人を犬と呼び、さげすんでいました。その場合の犬は、野良犬で家には入れられません。しかしイエスはここで、家のペットとして飼われる小犬と言っています。すなわち、「小犬」、ユダヤ人の間に住む、あるいはユダヤ人との接触のある生活を営む可能性のある異邦人と表現されたのではないでしょうか。ここにイエスの優しさ、そして「イエスがほめられる信仰」への入り口があるのです。
(マタイ15:27-28)『「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。』と。
このお母さんは、イエスの第一の使命を理解した上で、さらに小犬と呼ばれても、小犬であることをわきまえつつ、謙遜と服従をもってその信仰を表わしたのです。これが「イエスがほめられる信仰」なのです。このお母さんの願いはまさに、イエスの教えでした。
(マタイ6:33)「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」にかなった信仰だったのです。
それは、現実はどうであれ、神のみ旨がはっきりと示されるまで、根気よく、あきらめないで、忍耐をもって、執拗に願うことが大事だということです。ただ、それは強い自我からくる自己主張ではなく、神のみ旨を第一とする、謙遜と服従を伴った信仰でした。その信仰こそ、「イエスがほめられる信仰」なのです。
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