新約聖書から、神の愛をあなたへのページ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会 説教



タイトル

わたしが弱い時にこそ、私は強い

1.テキスト  「第二コリント人への手紙12章1から10節」

2.タイトル  「私が弱いときにこそ、私は強い」

3.中心聖句 「第二コリント人への手紙129節」

『主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』

 

4.本文  「私が弱いときにこそ、私は強い」

 序) 「第二コリント人への手紙のクライマックス」

  私たちの教会の年間のみことばとして、創世紀2214節、「主の山の上には備えがある」というみことばがあたえられています。それは私たちが神に備えられる人、そして神に備えられる教会として目標とするものです。そのヒントの一つが本日の聖書個所です。

  それは神学者がこの個所を、第二コリント人への手紙のクライマックスと呼んでいるからです。それは12章9節の「キリストの力が私をおおう」とパウロが言っているのは、「キリストの栄光が私に宿る」という意味だからです。「おおう」ということばは「宿る」を由来とします。また、旧約聖書には使われていませんが、1世紀のユダヤ人がよく使った「栄光」も、この「宿る」からです。しかも当時の旧約聖書のギリシャ語版では、「幕屋」も「栄光」をも意味することばとして使われています。

 ですから、「主の山の上には備えがある」というアブラハムの信仰に生きるために、この聖書個所から私たちも「わたしが弱いときにこそ、私は強い」というパウロの信仰、キリストの力が私たちをおおうこと、キリストの栄光が私たちに宿ることを願いつつ、聖書をお語りいたします。

 

本論)   「私が弱いときにこそ、私は強い」

1. 「パウロの誇り」

  (1)第二コリント人への手紙のパウロの語調が変わる。

パウロは9章まで、コリント教会の兄弟姉妹たちに対して優しいことばで記してきました。しかし10章から先、教会に入り込んで大部分の善良な信者をたぶらかしていた、ユダヤ主義者に対して語りだします。彼らは、利己的な動機から、自分の欲望のために、教会を巡回していました。その人々に対してパウロはきびしいことばを使って叱責を記しているのです。

ですからパウロの激しい語調は、決して個人的な怒りではなく、コリント教会の危機を憂えたキリストの愛に基づく怒りが記されているのです。

 

 (2)パウロの弁明

  パウロは聖書を語る資格がないとの攻撃に対して、このように弁明します。

 

(第二コリント人への手紙12章5節)

「このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。」

 

  パウロは、すばらしい経験をしたが、考えてみると、その素晴らしい経験は、すべて神から与えられたものであって、彼自身誇るべきものは何もない。だから、彼自身については「自分の弱さ以外に誇りません」(5)と言うほかは何もないというのです。その理由を具体的に最初の1節で語っていました。

 

(第二コリント人への手紙12章1節) 「私は主の幻と啓示のことを話しましょう。」

 

このことばについて神学者は説明していました。それは日本語と聖書が書かれたことばの違いから来ることで、日本語の国語的に説明すると、「主の幻と啓示」の「主の」は「幻と啓示」の修飾語ではなく、主体としての主語となり、パウロが天におられるキリストを見たいという意味ではなく、天におられるキリストがパウロに幻と啓示を与えられたいということなのです。

ですから、ここでパウロが言っている意味は、私は特別な経験をしましたが、それは神様からの一方的な好意による賜物であって、自分にはそのことを経験する資格も理由もないと言っているのです。

 

2. 「パウロに与えられた一つのとげ」

  しかし、その経験があまりにもすばらしいために、サタンの使いによって、一つのとげが与えられたと聖書にはあります。

 

(第二コリント人への手紙12章7節)

「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」

 

  ここで、皆様にはいくつかの疑問や質問が頭に浮かぶのではないでしょうか。

 (1)パウロはなぜ、神を呪わずに、この「肉体のとげ」を受け止めることができたのでしょうか。

パウロはなぜ、神を呪わずに、この「肉体のとげ」を受け止めることができたのでしょうか。そのことについて、神学者はこのように説明します。それはコリント教会の兄弟姉妹たちから「過大に評価」されるのを恐れたからであると。いつの時代でも、人は自分が弱いことを知っているので、超能力を持っていると思われる人にひかれます。そしてこのようなものを持っているかのように思わせて人をひきつけるにせ教師は、今日に至るまで、次々に現れています。それでパウロは新しい教祖にされることを恐れた。常に、神のみがあがめられなければならないからだと。

(2) どのような「肉体のとげ」なのでしょうか。

では、どのような「肉体のとげ」なのでしょうか。それは、迫害や誘惑はいつもサタンから来るからそれだとか。ガラテヤ人への手紙の4章15節と6章11節から悪性の眼病だとか。同じく4章13と14節から、彼には人に嫌われる病気だとか。皮膚病、マラリア、ユダヤ人の不信仰など。

しかし、具体的に何を指しているのかは不明としても、神学者はギリシャ語の意味から、これは「十字架」のことであろうと言います。ですから「肉のとげ」の意味は、私たちキリスト者が肉の弱さに負けてしまわないために、日々負う十字架(ルカ福音書923) 、また自分は十字架につけられていることと(ローマ人への手紙6章6節、ガラテヤ人への手紙220)

 

(3)なぜ、「肉体のとげ」がサタンの使いと言われているのか。

  では、それがどうして「サタンの使い」と言われているのでしょうか。サタンは、いつも私たちを苦しめる働きをします。ヨブの苦しみ(ヨブ記1章、2章)、18年間も病気の女の苦しみ(ルカ福音書13章)もサタンのしわざでした。しかしサタンも被造物であって、神の赦しておられる領域でしか働くことができません。ですから、打つのはサタンの使いであっても、彼が「高ぶることのないように」されたのは、主ご自身にほかならないのです。

 

3. 「キリストの力が私をおおう」

  パウロはその「肉体のトゲ」を主に取り去ってくださいと三度も祈り求めます。しかし、神様の答えはパウロの願いを拒否するものでした。神様の答えは、パウロの「肉体のトゲ」を取り去ることではなく、困難に打ち勝つ力を与えることでした。聖書にはこのようにあります。

 

(第二コリント人への手紙12章9・10)

『主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』

 

  神様は、わたしの力はお前の弱さの中においてこそ、完全に働くのだと祈りに答えられました。弱さが取り除かれず、弱さがあればこそ、それが主イエス様の働かれる機会となるのだと。ある牧師は、ここに「弱さ」の新しい理解があると。それは主が共にいてくださるなら、「弱さ」は敗北や不幸、損失で終わらず、主の働きの中で勝利や幸福、祝福と栄光となるのです。

  ですから、パウロは神様の御前で、コリントの教会の兄弟姉妹と今聖書のみことばに触れている私たちに信仰を告白します。その信仰告白を私たちも神様の御前で告白しましょう。

 

(第二コリント人への手紙12章9・10)

『主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』