新約聖書から神の愛をあなたへ

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

「さらに豊かな恵み」

葛西福音キリスト教会 メッセージ

2020920日礼拝聖書のお話し

1.テキスト「ヤコブの手紙41から10節」

2.タイトル「さらに豊かな恵み」

3.中心聖句「ヤコブの手紙46節」

「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる』」

 

4.本文「さらに豊かな恵み」

 序)著名な神学者のことば

著名な神学者のアウグスティヌスは「木が上に伸びるためには、根も深く張らなければならないように、自分の魂を謙遜の中に深く根ざさない者は自分に滅びを来す」ということばを残しました。

  このことばは、成長や祝福を受けるためには、まず、自分の根の部分、本音の部分、たましいの問題が大切であると教えているのではないでしょうか。

 

テーマ) 「さらに豊かな恵み」

  本日のテーマは「さらに豊かな恵み」です。本日の中心聖句の前半部分、「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」、何とも魅力的な聖書のみことばではないでしょうか。神からの祝福を忌み嫌う人はだれもいないのではないでしょうか。

  では、どのようなことで、私たちは神様から更なる豊かな恵みをいただくことができるのでしょうか。しかし、まず、その前にヤコブは私たちが神の祝福を受けそこなう原因があることを指摘します。

 

.なぜ、争いがあるのか

  第一の恵みを受けそこなう原因、それは、まず争いです。ヤコブはこのように指摘します。

 

(ヤコブの手紙41)

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」

 

神学者がコメントしていますが、人間の歴史は、争いのなかった時代のほうが争いの時代よりはるかに短いことを示していると。またそれは国と国との間のことだけではなく、一般家庭においても同じで、聖書が教える人間の原罪の問題を、これほどよく証明する事実はないと述べています。

さらにヤコブは、その争いの問題が、キリスト者の間においてさえそれは例外ではないと指摘しています。この世にある限り、私たちは戦いをいどんでくる快楽の影響下からのがれられないのです。 

では、どうすれば、欲望の支配から自由になることができるのでしょうか。ヤコブはこのように教えています。

(ヤコブの手紙42)

  「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」

 

  私たちの争いや戦いの根本原因は、私たちの関心が、神のみ旨を求めることなのか、それとも自らの快楽なのかということです。そのため「自分のものにならないと」「手に入れることができないと」あの弟殺しのカインのようになってしまうのです。聖書はこのように警告しています。

 

(第一ヨハネの手紙312)

「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました」

 

先のみことばに「あなたがたが願わないからです。」とあるように、私たちを真に満足させるお方は神だけなのです。真の満足は神のみから来るのです。

ですから、私たちは真の満足を与えることができるお方に願うべきなのです。もし、あなたが欲望に支配され、それだけを追求する生き方を続けるなら、あなたは真の満足も真の平和も決して得られないのです。

 

Ⅱ.なぜ、求めているものが得られないのか。

  ヤコブは「さらに豊かな恵み」を受けそこなう第二の原因を教えます。それは聖書の神に願っても得られないことの原因です。

 

(ヤコブの手紙43)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」

 

日本には、「苦しい時の神頼み」ということばがあります。これは、普段は信仰心を持たない人が、災害や病の困った時にだけ神仏に祈って助けを求めることです。このことばが示すように、欲望のもとにある人は、神に祈り、また願うかもしれません。しかしその祈りが神に聞き入れられない、ということも多い事なのではないでしょうか。

ヤコブはこのところで、神に願いが聞き入れてもらえないのは、時間も健康も財も、すべて「自分の快楽のために使おうとして」求めるからだと教えています。この「悪い動機で願う」とは、求めている個々の物や事がらが悪いというのではなく、求め方、すなわち動機がまちがっていることをヤコブは指摘しているのです。

ですから、聖書にはこのように教えられています。

 

(第一ヨハネの手紙514)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ」

 

このように、主のみこころを知ることが大切なのです。そうすれば、「さらに豊かな恵み」を受けることができるのです。どうか、皆様には礼拝、また日々の生活の中で、静まり、聖書を読み、みことばの意味を深く、また自らにあてはめ、祈るということを大切にしていただきたいと思います。それが主のみこころを知ることになるのですから。

 

.では、祝福されるためには。

  最後に、神から「さらに豊かな恵み」を受けることができるポイントを学びましょう。これまで、消極的な恵みを受けることができない原因でしたが、最後は積極的な恵みを受けることができる聖書の教えです。ヤコブはこのように教えています。

 

(ヤコブの手紙46)

「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる』」

 

  聖書はいくつかの箇所で神が「へりくだる者に恵みをお授けになる」と教えています。

 

(箴言334)「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける」

 

(第一ペテロの手紙55)

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」

 

聖書は教えています。「高ぶる者」とは、自分たちが神に造られた者であることを忘れ、創造者なる神にそむき、この世的な快楽や地位を求め、社会的に低い者や貧しい者を軽んじ、神を信じ仕える人々を無視する人のことです。神の怒りはそのような「高ぶる者」の上にとどまるのです。

そして、「へりくだる者」とは、自分の造られた分をわきまえ、不完全さを認め、全能者なる神により頼み、この神からのみ救いを待ち望む人々のことです。神の恵みは「へりくだる者」に与えられます。さらに10節で「へりくだり」のことが繰り返し教えられています。

 

(ヤコブの手紙410)

「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」

 

  聖書の教えの中で「へりくだり」は大切です。しかし、以前「謙遜」とは「能ある鷹は爪を隠す」という日本のことわざとは異なるとお話ししました通り、「主のみ前で」ということでその意味が大きく異なるのです。その謙遜は「主のみ前で」なされるものです。神学者が指摘するように、人の前で、この世的標準でなされる謙遜は、高慢の裏返しであり、偽りのへりくだりの場合があるのです。

ですから「主の御前でへりくだり」とは、聖書のみことばで示された神の啓示と、聖霊の導きのもとに自分を見るときにのみ、私たちは自分の真の姿を見ることができ、そこで初めて自分の足りなさを知ってへりくだることができるのです。私たちは聖霊の導きなくして自分の高慢に勝つことはできません。そして、この真の謙遜を学んだ人に、次の約束が神からの恵みとして確実に与えられます。すなわち「主があなたがたを高くしてくださいます」と。著名な神学者のアウグスティヌスも「木が上に伸びるためには、根も深く張らなければならないように、自分の魂を謙遜の中に深く根ざさない者は自分に滅びを来す」と教えています。